ワンダーコラム

2017年

10月

07日

言葉と無意識

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9月

10日

あちらとこちら1

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真っ暗闇

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30日

おてんとさま

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01日

ゲゲゲの鬼太郎

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13日

天皇   祟る王

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29日

家制度と墓

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2017年

11月

11日

縄文人の尾っぽを付けた日本人

縄文人の尾っぽを付けている現代人。1万年もの狩猟採集文化を続けるなかで、その野性的な文化は洗練され日本人の魂の基底となった。現代でも縄文料理の定番、「鍋」を楽しみ、盆や正月には、先祖の霊が集う故郷を目指す日本人の姿がある。とかく現代の常識は、五穀豊穣を中心とした稲作文化に傾きがちであるが、この列島では、山や森を舞台とした文化(マタギなど)が先行していたのだ。古い時代の文化が残る沖縄や北方民族アイヌには、ヒトはあちらからやってきて生まれ、また死んであちらへもどるのだ。アイヌの熊は、あちらから熊の姿でやってきて、ヒトにみやげとしての自らの美味しい身を与え、ヒトは、みやげを受け取る代わりに、熊のタマを無事にあちらへこころを込めて送り出さなければならない。これがイオマンテの祭りである。こころを込めて送り返された熊のタマは、あちらにもどり、こちらのことを満足げに仲間に話し、またこの世に仲間と共に熊として戻ってくるのだ。つまり、生きとし生けるものすべてのタマはあちらとこちらを行き来する存在なのだ。この野生の思考が、現代人にも先祖崇拝としてこころの底に生きている。現代では、仏教が先祖崇拝を担っているが、実はルーツは仏教以前の生活習慣であったのだ。ヒトとクマの交流を描いた宮沢賢治の美しい童話がある。ぜひ読んでみてください。

 

 

なめとこ山の熊

宮沢賢治

 

 なめとこ山の熊《くま》のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢《ふちざわ》川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴《ほらあな》ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。

 中山街道はこのごろは誰《たれ》も歩かないから蕗《ふき》やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁《に》げて登らないように柵《さく》をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆《い》も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆《い》は名高いものになっている。

 腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆《い》ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲《なぐ》りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。

 淵沢小十郎はすがめの赭黒《あかぐろ》いごりごりしたおやじで胴は小さな臼《うす》ぐらいはあったし掌《てのひら》は北島の毘沙門《びしゃもん》さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹《マダ》の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃《せいばん》の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯《のぼ》っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金《きん》いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖《がけ》を横這《よこば》いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝《ひざ》から上にまるで屏風《びょうぶ》のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼《め》をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈《はげ》しいやつならごうごう咆《ほ》えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹《き》をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。

「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射《う》たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰《たれ》も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」

 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。

 何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢《せきり》にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。

 それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎《あご》のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆《い》をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。

 小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯《みね》になった処《ところ》へ去年の夏こさえた笹小屋《ささごや》へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。

 なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水《わきみず》のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕《おどろ》いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二|疋《ひき》ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺《なが》めるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付《くぎづ》けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。

「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」

 すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。

「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」

 子熊はまた言った。

「だから溶けないで残ったのでしょう」

「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」

 小十郎もじっとそっちを見た。

 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧《よろい》のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。

「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」

 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃《コキエ》もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。

「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」

「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」

「いいえ、お前まだ見たことありません」

「知ってるよ、僕この前とって来たもの」

「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」

「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退《あとずさ》りした。くろもじの木の匂《におい》が月のあかりといっしょにすうっとさした。

 

 ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆《きも》を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。

 町の中ほどに大きな荒物屋があって笊《ざる》だの砂糖だの砥石《といし》だの金天狗《きんてんぐ》やカメレオン印の煙草《たばこ》だのそれから硝子《ガラス》の蠅《はえ》とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金《からかね》の火鉢《ひばち》を出して主人がどっかり座っていた。

「旦那《だんな》さん、先《せん》ころはどうもありがどうごあんした」

 あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮《てい》ねいに敷板に手をついて言うのだった。

「はあ、どうも、今日は何のご用です」

「熊の皮また少し持って来たます」

「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」

「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉《く》んなさぃ。安くてもいいます」

「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗《くり》があったしうしろのまるで少しの畑からは稗《ひえ》がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌《みそ》もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。

 里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤《ふじ》つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で言ったもんだ。

「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉《く》なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。

 主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。

「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」

 店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。

「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」

 小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談《はな》す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳《ぜん》できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶《あいさつ》をしている。

 間もなく塩引の鮭《さけ》の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。

 小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口《ちょこ》についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰《たれ》でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐《きつね》けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。

 

 こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。

 小十郎が谷をばちゃばちゃ渉《わた》って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫《ねこ》のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦《おおよろこ》びで木の下に行って木のまわりを烈《はげ》しく馳《は》せめぐった。

 すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射《う》たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。

「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」

「ああ、おれはお前の毛皮と、胆《きも》のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」

「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」

 小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。

 

 一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。

「婆《ば》さま、おれも年|老《と》ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌《や》んたよな気するじゃ」

 すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩《うまや》の前から顔を出して「爺《じ》さん、早ぐお出《で》や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。

 小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。

 犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗《ひえ》の藁《わら》でふじつきをして遊んだ。

 

 小十郎は白沢の岸を溯《のぼ》って行った。水はまっ青に淵《ふち》になったり硝子《ガラス》板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺《かば》の幹の影といっしょに雪にかっきり藍《あい》いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。

 白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲《す》んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。

 小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡《めがね》をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖《がけ》でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆《ほ》え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。

 小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。

 ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐《あらし》のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛《か》み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。

「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」

 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。

「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。

 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光《りんこう》をあげた。すばるや参《しん》の星が緑や橙《だいだい》にちらちらして呼吸をするように見えた。

 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環《わ》になって集って各々黒い影を置き回々《フイフイ》教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸《しがい》が半分座ったようになって置かれていた。

 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴《さ》え冴《ざ》えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

 

 

 

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より

2017年

10月

07日

言葉と無意識

夢を見た。部屋は全面がグレー、空気までもがグレーだった。まさに陰の部屋だ。そこには北斎らしい人物が龍の絵を描いている。その上の階は、眩しいほどの白い部屋だった。陰がない世界。数人の絵描きがそれぞれ龍を描いていた。北斎はグズグズ唸りながら上の階の絵描きたちが気に入らないらしい。北斎の下の階は、暗い部屋である。彼が筆を進めるにしたがって、下の階が、なぜかどんどん暗くなっていく。龍の絵が完成されると、下は漆黒の闇となってしまった。その闇は、2階にも渦巻きながら押し寄せ、ついに3階をも覆い尽くしてしまった。北斎の龍は、湧き立つ黒雲とともに天に昇っていったのだ。
言語学者丸山圭三郎は、現代の構造主義の先覚者ソシュールが見出した言語世界の構造に、仏教の縁起の思想を重ね合わせている。世界は関係(縁起)の網の目でできていて実体はない。という思想だ。ヒトの意識は言語であり、表層にはロゴス、深層にはパトス、更に最下層には、無秩序な無意識の領域が広がり、それら意識=言語世界は流動している。その流れの中の楽しみや苦しみ、悦楽や苦悩に本当の創造的な人生はあると説いている。表層のロゴスは、明るい影のない世界を出現させ、理性的、合理的、常識的、制度的共同幻想を形づくり、現代人を囚人化しているのだ。光輝く都市には、必ず陰に満たされた場所ができる。ヒトの人生にも光と陰がある。それが森羅万象の理である。その陰こそが、実は本来的なパトス的創造の時空なのだ。精霊たち(日本のタマ、カミ、モノノケ、オニ)もここに棲んでいる。ちなみに丸山は、ロゴスとパトスのことを、寅さんの映画「男はつらいよ」にちなんで、ロゴスは<頭>、パトスは<気持ち> と捉えている。
「頭じゃわかっているんだが、気持ちが俺をひょんな方向へ駆り立てていっちゃうのよ」
参考図書:「言葉と無意識」丸山敬一郎

2017年

9月

26日

脳内無意識に遍在する神々

現代科学によれば、エネルギー=物質である。さらに物質世界をリアルな次元とすれば、虚構世界すなわちバーチャルなリアル、すなわち情報世界もヒトにとってリアルな次元である。まだまだ一般的には、これに違和感を持つ人々も多い。物質宇宙の次元に情報宇宙の次元を加えた宇宙がヒトの住む宇宙である。したがって物質=情報とすれば物理学は、情報物理学として物質世界と精神世界をつないで宇宙や身体の謎を情報視点から解明できるかもしれない。

仮に身体を情報システムとしてみれば、ガンなど組織の突然変異はシステムのバグであり、免疫は、修復システムという訳だ。さらに自己保存と進化へ向かうようプログラムされた身体システムは、五感を含む外部センサから外部情報を脳内(無意識領域)に取込み、無意識領域で全ての情報処理を終えるよう設計されている。「意識」は、無意識のごく一部のサブシステムとして付け加えられている。外界からやってくる情報には、通常の認知に関わる情報以外に、即時に処理不可能な特異情報が含まれている。これも無意識は受信して保存しているのだ。この外界の情報には、微妙な季節の変化を感じるような時空の手触り、匂いとでもいうような微細なニアンスが含まれる。これが、場面によって意識に送られ感動や失意などの情感のクオリアとなるのではないだろうか。いわば、それら特異情報が人生の情感に一役かっているのだ。これらの特異情報には、カミの現象も含まれるはずだ。

もともと絵画や音楽などヒトの芸術活動は、宗教と共に生まれている。それ故か、現代でも多くのヒトは、美術館に行って芸術作品に拝礼しているかのようだ。神社に詣るように。確かによくできた作品には霊性がある。優れた画家や音楽家には、計り知れない色や形、音への感受性が備わっている。微妙な色の変化をも感知しているのだ。これは作家が無意識のうちに、無意識領域に組み込まれた特異情報を自在に引き出して活用しているからではないだろうか。日常生活においても、センスのいい人、目利きと言われる人たちがいる。彼らは本物を数多く見るなど体験や訓練を通して美に対する感受性を磨いているのだ。彼らは無意識内に特異情報を蓄えるとともに、それを使う術を知っているのだ。

ヒトが絶体絶命の危機に瀕した時、死に至る病気、肉親の死、大きな災害などに瀕した時には、脳内無意識が最大限の出番を迎えると思われる。無意識の潜在情報の一部が意識に侵入して変性意識として大いに働くのだ。脳内無意識に遍在する神々の特異情報が緊急出動して動揺を抑え、克服する道を指し示すのだ。意識にとって無意識はあちらの領域と捉えられている。変性意識とはそんなあちらがこちらに交わっている心のことである。生と死、里と山、陸と海などこちらとあちらは、意識と無意識に対応している。無意識の有象無象の特異情報は、祭りの時空や盆踊りの渦巻きの中にも生きている。

2017年

9月

25日

いま何故、日本なのか

本サイトは、日本という文化の独自性や特徴に、古い日本のカミが関わっていることを検証する試みである。八百万(やおよろず)のカミという多神教文化を有し、世界史的にも辺境の地であった日本列島に起こった文化が、いま世界の脚光を浴びはじめていると思うのは著者だけだろうか?

 

縄文時代から現代に至るさまざまな出来事と日本の神々との関わり解明し、そのカミの構造と機能が特定できれば、あたかも薬草から薬の成分を絞り出すように、従来の宗教の枠にとらわれない新たな観念装置としての「カミ」は、現代的な事物への活用が可能となると考える。 文明史的にも、アジアの東端に位置する日本は、古代から文明の中心ではなく、いわば辺境の地、イナカであった。それ故、いつでも文明の中心地からオリジナルを取り入れ、カスタマイズしてハイブリット化する独自の文化を作り出した。そのカスタマイズの「妙」に、日本のカミ概念が関係していると思われる。

 

これらは、すでに具体的な成功事例が数多く存在している。本ブログでも紹介したアップルのジョブスのiPhoneイメージの中心には「日本のカミ」が隠されている。三宅一生やケンゾウのヨーロッパでの成功は、「日本」を色や形に現代化した結果である。モノマネから出発した戦後の日本のものづくりは、後発にもかかわらずオリジナルを凌駕した。いわばニセモノが本物を超えたのだ。 これらには「日本のカミ」が隠されている。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」などのアニメ作品には、現代化された「日本のカミ」が活躍している。現代の日本社会には実体のない表象としてのキャラクターが各処に浮遊している。それらはそれぞれに小さな物語りが付属し、それはあたかも愛らしいモノノケのようだ。

 

このことは、ナショナリズムでも日本礼賛でもない。一国民として国際社会の中での日本国の立ち振る舞いが何とも情け無いのだ。グローバル化された国際社会の中で、常識的な経済貢献や軍事的補完関係を超えて日本という国が、世界から尊敬をされ重要な役割を果たすためには、伝統的に祖先から受け継いできたこの独自のノウハウ、「神技」をつくりだしたそのエッセンスを摂りだし、一般化、標準化して、世界で共有できればおもしろいと思う。 

 

 

 

 

 

2017年

9月

24日

グラデーションの大地 日本


「ああ、その光景の魅力はどうだろう。あの靄に浸されて定からぬ朝の最初の艶やかな色合い。こういう朝の色綾は眠りそのもののように柔らかな靄から軽く抜け出て目に見える蒸気となってうごく。ほのかに色づいた霞は長く伸び広がって湖に遥か彼方の端にまで達する」
1890年に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本の最初の印象を綴った著作「神々の国の首都」での朝の宍道湖の一節である。彼は日本の人々の生活の隅々まで行き渡った美的感性の所在を、この出雲の宍道湖の霞のように、果てしないグラデーションの風土と光に求めている。

画家安井曾太郎がフランス留学から帰国して、彼はフランスでは描けていた絵がまったく描けない大変なスランプに陥ったそうだ。原因は、フランスの光と日本の光が決定的に相違することだった。彼は日本のグラデーションの在り方に気付き、スランプを克服したらしい。

日本の表現、とりわけ水墨画は、余白とグラデーションの時空だ。必ず観る者にグラデーションは無限を感じさせ、向こう側、彼方を感じさせる。その彼方に人々は想いを馳せ、神々を感じたのではないだろうか。暑い夏の日、平成の大遷宮を終えた出雲大社に詣ってそんなことを思っていた。

2017年

9月

22日

困った時のカミ頼み

気が付いたことがある。その日は、庭に出て降りしきる雨を眺めて過ごした。あまだれの動きをじっと見ていると、水はモノであるとともに、記号的でもあり、重たい空気でもあるような気分にとらわれた。その光景そのものが、こころを満たすクオリアであり、視覚や聴覚などの五感だけでは表せない時空であった。その光景の全情報は身体を満たし無意識に取り込まれるのだ。無意識は、この錯綜した情報すべてを取り込み、しかるべき処理を加え保存しているのだろうか。つまりボーとしていることはすごいことかもしれない。

 

曖昧でとりとめのない世の中の動きやこころの現象は、光は粒子であると共に波であり、モノの位置は特定不可能など、曖昧さを核心としたミクロ世界の量子論と似ていると思えた。一般的には、現象には原因と結果があり、分析により本質を究明、法則の発見に至る。これにより世界を合理的に捉える。というのは常識的見解である。しかも、この見解は、意識中心主義的なものである。もっと無意識領域から世界をとらえるべきではないだろうか。本当のところは、もっと曖昧でアバウトなものかもしれない。脳内の無意識領域で営まれているニューロン・ネットワークは、数字や言語のような記号的な構成ではなく、2進法的なコンピュータ処理とは異なり、その処理の形態は分子レベルでアナログ的であり曖昧を本質としていると思われる。啓示と呼ばれたり直感と呼ばれるような認識は、無意識領域で、先ほどのクオリア体験などの多様で微細な情報が絡み合って答えを導き出し、それを都合良く記号化して意識に受け渡しているのではないだろうか。

 

仮にそうだとすると、本論の仮説は、カミとは森羅万象からやってきた無意識内に宿る特異情報であった。特に森と海を中心とした多神教文化で育ったこの列島のヒトにとってカミとは、例えば脳内の無意識をOSとすると、「困った時のカミ頼み」のための脳内アプリであるのかもしれない。さまざまなキャラクターをもった脳内アプリ「カミたち」が、ヒトの人生と関わって協働する。カミとは、タマであり精霊である。精霊は情報であり、情報はエネルギーであり、宇宙であった。さらに心を持って生きているヒトもタマである。したがってヒトは物質としての身体を持った情報なのかもしれない。

2017年

9月

21日

あちらとこちら2  マレビトたち

アカマタ・クロマタ
アカマタ・クロマタ

日本には不思議な祭りがある。ある日突然、あちらの世界からとんでもない怪物がやってくるのである。民俗学者折口信夫はこの怪物たちを「マレビト」と呼んだ。里の人にとってはおどろおどろしい魔物であるが、実は里に福をもたらすカミであった。現代の常識では、カミは、立派な人格を持った全知全能の存在で、それ故、お祈りすれば願いを叶えてくれる存在であると思われているが、歴史的にはそうではない。その大部分は、わがままで凶暴、楯突けば祟る存在なのだ。実際、祭りに登場するマレビトたちも、ヒトを襲うことがある。襲われたヒトは、意外にも幸や福をいただくことになる。マレビトとは、あちらの力である。ヒトはそれ以外にもあちらの力をいただいて生きている。前回の1で述べたように、植物たちは、地上をこちらとすれば地下の養分、あちらの力ををいただいて生育し、実や花を地上のこちらに届け、鉱物や石油は地下、あちらの力そのものである。ヒトは、言葉や絵を通して過去の世界、いわば、あちらから先祖の知恵や歴史を学んでいる。ヒトは、あちら側の時空から食料などの幸や、石油などのエネルギーを得て生きているのだ。マレビトとは、あちらのエネルギーの象徴そのものであった。

 
仮面の来訪神が登場する祭 
能登半島  アヘノコト 
秋田  ナマハゲ 
岩手  スネカ 
石川  アマメハギ 
山形  アマハゲ 
長野南部新野  新野雪まつり 
奄美大島  テルコナルコ 
鹿児島県甑島など  トシドン(歳神) 
八重山  アンガマ・ミルク・フサマラー・マヤの神・トモマヤ 
宮古島  パーントゥ 
西表島  アカマタ・クロマタ・シロマタ 
沖縄本島北部  海神祭(ウンガミ)・アガリの大主・ガナシ 
石垣島河平(かびら)  マユンガナシ 

2017年

9月

10日

あちらとこちら1

昼と夜、地上と地下、祭りと日常生活、山と里、陸と海、地上と空、日常空間と廃墟、ヒトはそれらを体験する時、こちらからあちらを思い浮かべる。鉱物は地下から掘り出され地上でヒトの資源となる。植物は地下から養分を吸い上げて成長し、花や実となって地上の生き物を潤す。魚たちは水の外に引き上げられて海の幸となる。祭りは、あちらからやってきたカミが神輿に乗せられて里の家々を祝福してまわる。ヒトは山・海・空の彼方にあちらの世界を感じる。夜を照らすほの暗い照明の向こうの闇に、あちらの世界をを感じる。カミ、タマシイ、モノノケ、オニ、幽霊、怪物などはあちらの住人である。ヒトが感じるカミとはすべてあちらの世界のものたちの総称である。日本では、芸能者や職人の優れた人たちはあちらのパワーをこちらに導き入れるすべを知ったヒトたちであった。しかも彼らの技芸は、あちらをこちらに引き入れるために精緻を極めたものとなった。それらを見たり体験したりする人たちは、一見、シンプルでフラットな表現物の背後に、必ずあちらからのメッセージを受け取ることとなる。光と闇、黄昏のほのかな陰影の中であちらへの入口を見つけて、あちらからこちらを見ることができた時、まったく新しい世界が広がっているのかもしれない。 

 

2017年

8月

07日

カミとは森羅万象が発する見えないアプリだった

21世紀にはもう宗教は必要がない。もともと宗教は有限の存在である人間が、完全で無限の存在である絶対者、神からの救済を求めたことからはじまった。いわばヒト中心に作られた救済の社会システムであったわけだ。教団を作って社会的に機能する宗教は、いつしか教祖の本来の教えから乖離し社会権力化した。更に結果として絶対神への信仰は、現代でも民族相互の深刻な対立を生み出している。そこで原点回帰してアニミズム的観点からみると、古代にカミとされたのは、森羅万象が発する特異情報としての精霊たちであった。ヒトは、その特異情報を感知し、カミとして受け容れたと思われる。今風に言うと、古代では自然からやってきた特異情報を、宗教というテンプレートの枠に受け容れて理解したわけである。キリスト教などの一神教は、アミニズムの精霊たちから、より抽象度の高い絶対者を設定しキリスト教というテンプレートを作り上げた。しかし、この列島では、森羅万象の多様なカミたちをそのまま認め、それらを祈りの対象としてばかりでなく、具体的な生きる道しるべとして活用していたのではないだろうか。
つまり森羅万象をOSとしたカミという名の複数の多用途アプリと考えれば、宗教という名前の特定のアプリではなく、ヒトが石油や木材を天然資源として森羅万象から取り出したように、カミ(タマ)という特異情報を情報資源として受け容れて、もっと自由に活用できると思われるのだ。その実例が、日本的なものづくりや食文化の独自性に現れていると思えてならない。

2017年

8月

05日

真っ暗闇

真っ暗闇に入ってみる。なんとも心許ない気分になる。いかに視覚に頼ってきたかが分かる。暗闇の中で歩き始める。五感が活性化されている。聴覚と触覚を頼りにしている自分がいる。暗闇は恐怖だ。多分、生き物として最も無防備な状態であるのかもしれない。何者かが突然襲ってくるかもしれないからだ。しかし、少し考えてみると、元々こころには、恐怖を与える何者かがインプットされているのかもしれない。無意識の中に多くの何者かが潜む恐怖の小部屋があって、日頃はその扉は閉まっている。ヒトが闇に入るとその扉が開いてモノノケたちが活躍しはじめるのかもしれない。
耳なし芳一に登場する平家怨霊の闇。モノノケたちが跋扈する「百鬼夜行絵巻」に描かれている平安京の闇。江戸の闇に絢爛たる花を咲かせた吉原の花魁。さらに華麗な隅田川の花火。日本の夜の闇は、様々な文化の母体であったのだ。さらに、失明の琵琶法師たちが、光のない世界から独自の文化を育てていったのだ。
幼い頃、映画好きの叔父に連れられて怪談ものの映画をよく見せられた。「四谷怪談」や「番町皿屋敷」である。怖い場面になると画面を注視できなくてうつむいて目を伏せていた。その時、目を伏せた先の闇にも、闇そのものが恐怖となっていた。お化け屋敷は、ヒトのこころの恐怖の扉を開くエンターテイメント装置かもしれない。闇にはヒトを原始状態に導く力がある。古代の森羅万象には、現代人が想像できない深い闇があったに相違ない。そんな中で無意識の中の恐怖の扉が開かれるのだ。夜の闇を照明の進化によって克服した現代人にとって、すでに闇の恐怖は分からなくなってきている。と同時に、闇の中から価値あるチャンスも引き出せなくなっている。
たまには、お化け屋敷に行って闇の怖さを改めて感じてみませんか?

2017年

8月

01日

ミラーレスカメラとインターネットとクールジャパン

このWEBサイトの風景写真は、ミラーレスカメラによって撮影されている。長年、愛用したアナログの一眼レフカメラに慣れた眼には、このミラーレスが大変斬新であった。筆者はこのファインダーを覗いた途端、直感的に納得、すぐに購入したのだった。写真を撮ることはリアルを追い求めることと決めていた筆者には、フィルムの銀粒子の濁った曖昧なトーンにリアルを感じていたのだが、ミラーレスの巧妙に設えられたファインダー画像にもリアルを感じたのだ。カメラ製作者の意図は、撮影された写真そのものがファインダーで見えることだ。だが、それは同時に肉眼で見たままであると思っている風景が、実は脳が巧妙に加工した風景であったことを気付かせてくれたのだった。リアルだと思っていた私の理解の仕組みそのものを、ミラーレスのファインダーが表現していたからである。そこには、一眼レフのペンタプリズムによって外界がダイレクトに投影される仕組みはもうないのだ。ミラーレスのファインダー画像は、カメラに組み込まれたソフトウエアにより自在に演出されている。実は、人間の視覚と同じ構造なのだ。人間の視覚も脳内の無意識領域で再加工された画像を意識がリアルなものとして見ていたのだ。それならば、アナログの一眼レフよりミラーレスの方がすぐれているのではないか。それが購入理由であった。現代は目を最優先にした文明である。スマートフォンの爆発的な普及により何十億人ものカメラマンが日常を撮影している時代となり爆発的な数の画像が、表象となって地球を覆っている。 

 

インターネットがあらわれてすでに四半世紀が経過した。当初よりその仕組みそのものが現代的であった。テレビ、新聞などのように中央集権的ではなく、個別分散的な竹藪(リゾーム)構造なのだ。さらにSNSに見られるように双方向である。パソコンと電話付きパソコン(スマートフォン)の普及と相まって随分、ヒトのコミュニケーションの質が変化している。とりわけインターネットの特徴は、すでに大きな物語が消えていることである。古典的な世界では、大きな物語は社会から供給されていた。ヒトはそれをテコにして社会や人間を理解した。しかし、インターネットは、大きなデータベースである。ヒトは検索しながら各自が小さな物語を紡いでいく世界になったのだ。 

 

さらに東アジアの辺境の地、日本からアニメ、漫画、ゲームなどの創作活動や、寿司、天ぷらなど和食文化が海外に広がっている。セーラームーンで育ったフランスの少女たちが来日する時代となった。50年前の日本では考えられないことだ。当時は、欧米文化に憧れ、日本は欧米のコピー商品だらけだった。偽物、安物と言われ、憧れを裏返せば田舎者の劣等感でもあったのだ。しかし偽物と揶揄されたものたちは、独自進化を遂げて、日本の田舎者文化は、本物、オリジナルを凌駕するまでになった。 

 

ミラーレスカメラ、インターネット、クールジャパン。一見繋がりのなさそうなものたちは、その根元で繋がっている。どれも1990年代が関係している。何が起こったのだろう! 

 

2017年

7月

30日

おてんとさま

日本人にとってカミとは、「おてんとさま」のことであった。今風に言えば「太陽であり大自然」のことである。日本人は日頃の挨拶で「今日はいいお天気ですね」とか「蒸し暑いですね」とか天気の話をよくする。一神教の神(キリスト教ではGOD)とは、全知全能で完全無欠なこの宇宙を作った存在のことである。もちろんこの神は宇宙に一人しかいない。それに対して日本のカミは、この宇宙のあらゆるものに宿るカミである。その全ては「おてんとさま」につながっている。晴れの日もあり、嵐の日もある、これが「おてんとさまに顔向けできない」のそれなのだ。もともと日本のカミさまは、言葉に宿っても言葉とは無縁の存在だった。したがって経典、聖書の類いはない。キリスト教のように「はじめに言葉ありき」の欧米的な宗教ではないのである。カミは言葉なくして感じるものである。カミを祀る日本の芸人や職人たちには言葉はいらない。さらに言うと、日本においては仏さまなど外来の神々は、すべて古来からのカミの一種であり明治以前の神仏混淆の時代では同じものだった。つまりカミと神は別物と考えるべきなのだ。同じ呼び名が混乱を招いている。カミの代わりに、日本古来のタマと呼ぶべきかもしれない。森羅万象に宿るのもタマだし、先祖の例もタマである。その全てをまとめると「おてんとさま」なのだ。今風に考えてみると森羅万象にはヒトにとって脅威となるものや、意味不明なおかしなもの、怖いものがあって、それらをヒトの知覚は、不可思議なものとして脳内の無意識領域に特異情報としてタマを取り込んだ。その特異情報は、無意識の中で他の情報と組み合わされ人生上の問題解決の手助けをしてきた。タマもカミも脳内情報であったのだ。ヒト自身も「私というタマ」が宿っている存在だとすると、その内なるタマと、外から宿ったカミとの共同作業が、カミのご利益(ごりやく)ではないだろうか。タマとカミとの共同作業がカミのご利益とすると、日本の独自性とは、ヒトとカミとのコラボレーションが、創造の基盤となっていることを示すものであり、これはもしかすると大きな未来の可能性かもしれない。そして人間版「おてんとさま」とは、1700年、綿々と存続した天皇のことなのかもしれない。
暑い夏の日、生駒山の石切神社でお百度をする人達を見て、ふとそのようなことを考えていた。
参考:GAIA PRESS

2016年

9月

30日

日本の八百万の神々一覧

日本では、カミとは神社に祀りたいと思えるパワーを持った精霊や心霊のことである。
カミの力は、背けば祟るかもしれないという畏れと、カミが生み出すサチ(幸や福)であった。カミは、古くは大自然の太陽や月、風や雷、岩石や大樹、動物などに宿る精霊たちであった。それらはタマ、モノ、オニ、カミと呼ばれていた、歴史時代に入るとその多くが、独自のパワーと物語を持ったヒトがカミとなった。これらに加えて道教の神々など外国からやってきたカミが加わった。まさに日本は八百万のカミの世界となった。

以下、Wikipediaに紹介された日本の八百万のカミである。


日本神話由来の神
あ行
    •    青沼馬沼押比売神(あおぬまぬおしひめ)
    •    赤城大神(あかぎ)
    •    浅間大神(あさま)
    •    阿加流比売(あかるひめ)
    •    飽咋之宇斯能(あきぐいのうしの)
    •    開囓神(あきぐいのかみ) - 伊弉諾尊の袴から神に成る(「日本書紀」表記)
    •    秋比売神(あきびめ)
    •    秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)
    •    阿久斗比売(あくとびめ)
    •    阿邪美都比売命(あざみつひめ)
    •    阿邪美能伊理比売命(あざみのいりびめ)
    •    足柄之坂本神(あしがらのさかもと):坂の神 
    •    味耜高彦根神、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)- 農業、雷、不動産業の神
    •    葦那陀迦神(あしなだか) :「古事記」にみえる女神。 大国主神の妹。
    •    足名稚命、脚摩乳命(あしなづち):⇒脚摩乳・手摩乳
    •    葦原色許男神(あしはらのしこお):⇒大国主
    •    阿須波神(あすは)
    •    阿曇大浜(あずみのおおはま):阿曇(あずみ)氏の祖
    •    吾田媛(あたひめ)
    •    阿比良比売命、吾平津媛(あひらひめ、あひらつひめ)
    •    熱田大神(あつた):⇒天叢雲剣(草薙剣)・三種の神器
    •    阿曇磯良(安曇磯良)(あづみのいそら)- 海の神
    •    姉倉比売(あねくらひめ)
    •    穴戸神(あなと)
    •    淡島神(あわしまのかみ)
あま・あめ
    •    天津国玉神(あまつくにたま)
    •    天津久米命(あまつくめ)
    •    天津彦根命、天津日子根命(あまつひこね)- 日の神、海の神、風の神
    •    天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)
  :⇒鵜葺草葺不合
    •    天津日高日子番能迩迩芸命(あまつひこひこほのににぎ):⇒瓊瓊杵
    •    天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみ):⇒火遠理
    •    天津日高彦瓊瓊杵尊(あまつひたかひこににぎ):⇒瓊瓊杵
    •    天津日高彦火火出見尊(あまつひたかひこほほでみ):⇒火遠理
    •    天津麻羅(あまつまら)- 鍛冶の神
    •    天津甕星(あまつみかぼし)- 星の神
    •    天照御魂神(あまてるみたま) :⇒天火明、天照大神、饒速日など諸説ある。
    •    天照大神(あまてらす):⇒三貴子- 太陽神
    •    天照大御神(あまてらすおおみかみ):⇒ 太陽神
    •    天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 (あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ)
  :⇒饒速日
    •    天知迦流美豆比売神(あましるかみづひめ)
    •    天石門別神、天石戸別神(あまいわとわけ)
    •    天活玉命(あめのいくたま)
    •    天宇受売命(あめのうずめ)- 芸能の女神
    •    天表春命(あめのうわはる)- 開拓、学問、技芸、裁縫、安産、婦女子の守護神。
    •    天之忍男(あめのおしお)
    •    天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
    •    天忍日命(あめのおしひ)
    •    天之忍穂耳命(あめのおしほみみ)- 稲穂の神、農業神
    •    天之尾羽張神(あめのおはばり)
    •    天迦久神(あめのかく)
    •    天香山命(あめのかぐやま)
    •    天香語山命(あめのかごやま):⇒天香山命
    •    天之久比奢母智神(あめのくひざもち)
    •    天之闇戸神(あめのくらと)
    •    天児屋根命(あめのこやね)
    •    天之狭霧神(あめのさぎり)
    •    天探女(あめのさぐめ)
    •    天之狭土神(あめのさづち)
    •    天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
    •    所造天下大神(あめのしたつくらしし):⇒大国主
    •    天下春命(あめのしたはる)- 開墾の神
    •    天手力男命(あめのたぢからお)- 腕力・筋力を象徴する神
    •    天種子命(あまのたねこ)
    •    天之都度閇知泥神(あめのつどへちぬ)
    •    天之常立神(あめのとこたち)
    •    天鳥船神(あめのとりふね)- 船の神、運輸・交通の神
    •    天羽槌雄命(あめのはづちお)
    •    天一根(あめのひとつね)
    •    天比登都柱(あめひとつはしら)
    •    天日照命(あめのひでり)
    •    天夷鳥命(あめのひなどり):⇒建比良鳥命
    •    天日腹大科度美神(あめのひばらおおしなどみ)
    •    天日槍命、天之日矛(あめのひぼこ)
    •    天日鷲命(あめのひわし)- 豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神
    •    天之吹男神(あめのふきお):⇒家宅六神
    •    天両屋(あめふたや):⇒両児島
    •    天太玉命(あめのふとだま):⇒布刀玉命
    •    天之冬衣神(あめのふゆきぬ)
    •    天火明命(あめのほあかり)
    •    天穂日神、天之菩卑能命(あめのほひ)- 農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神
    •    天目一箇神(あめのまひとつ)- 鍛冶の神
    •    天之御影神(あめのみかげ)
    •    天之甕主神(あめのみかぬし)
    •    天道根命(あめのみちめ)
    •    天若日子、天稚彦(あめのわかひこ、あめわかひこ)
    •    天之水分神(あめのみくまり):⇒水分神
    •    天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)
    •    天之御中主神(あめのみなかのぬし)- 宇宙の根源の神
    •    天八意思兼(あめのやごころおもいかね):⇒思兼神(おもいかね)
    •    荒河刀弁(あらかとべ):紀国の国造
    •    淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま)
    •    沫那芸神(あわなぎ)
    •    沫那美神(あわなみ)
    •    阿波神(あんば)
い・う・え・お
    •    伊古奈比咩(いこなひめ)
    •    伊古麻都比古神(いこまつひこ)
    •    伊古麻都比賣神(いこまつひめ)
    •    伊弉諾尊、伊耶那岐命(いざなぎ)
    •    伊弉冉尊、伊耶那美命(いざなみ)
    •    石凝姥命(いしこりどめ)- 鋳物・金属加工の神
    •    伊豆山神(いずさんじん)
  :⇒火牟須比(ほのむすひ)、伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ))
    •    伊須流伎比古(いするぎひこ)
    •    伊勢津彦(いせつひこ):『伊勢国風土記』逸文に見える神
    •    五十猛神(いそたける、いたける)- 林業、造船、航海安全、大漁の神
    •    市杵嶋姫神(いちきしまひめ):⇒宗像三神
    •    一目連神(いちもくれん):⇒天目一箇神
    •    伊豆那姫命(いづなひめ)
    •    伊豆能売(いづのめ)
    •    稲背脛命(いなせはぎ):天穂日神の子
    •    葦夜神(いや)
    •    五百箇磐石尊(いおついわむら)
    •    磐裂神・根裂神(いはさ・ねさく)
    •    磐筒男神(いはつつのを)
    •    磐筒女神(いはつつのめ)
    •    石土毘古神(いわつちびこ):⇒家宅六神
    •    石巣比売神(いわすびめ):⇒家宅六神
    •    磐長媛命(いわながひめ)- 不老長生の神
    •    宇迦之御魂神(うかのみたま)- 穀物の神
    •    鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえず)- 農業の神
    •    保食神(うけもち)- 食物神
    •    宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)- 活力を司る神
    •    蛤貝比売、宇武賀比売命(うむぎひめ、うむかひめ):⇒蛤貝比売・蚶貝比売
    •    表筒男命(うわつつのお):⇒住吉三神
    •    宇比邇神・須比智邇神(うひぢに・すひぢに)
    •    榎本神(えのもと)
    •    淡海之柴野入杵(おうみのしばぬいりき)
    •    大麻比古命(おおあさひこ)
    •    意富斗能地神・大斗乃弁神(おおとのぢ・おおとのべ)
    •    大雷(おおいかづち、おほいかつち):⇒八雷神
    •    意富加牟豆美命(おおかむづみ)
    •    大口真神(おおぐちまがみ)- 日本狼の神格化
    •    大国主命(おおくにぬし)
    •    大事忍男神(おおごとおしお)
    •    大綿津見神(おおわたつみ):⇒ワタツミ
    •    大気津姫神(おおげつひめ)- 食物・穀物の神
    •    大年神(おおとし):⇒年神
    •    大戸日別神(おおとひわけ):⇒家宅六神
    •    大直毘神(おおなおび):⇒直毘神
    •    大己貴神(おおなむち):⇒大国主
    •    大日孁貴神(おおひるめ):⇒天照大御神
    •    大禍津日神(おおまがつひ):⇒禍津日神 - 災厄の神
    •    大宮能売神(おおみやのめ):⇒八神殿
    •    大物忌神(おおものいみ)
    •    大物主神(おおものぬし)- 水神、雷神
    •    大屋都比賣神(おおやつひめ):⇒大屋都姫・都麻津姫
    •    大屋毘古神(おおやびこ):⇒家宅六神・五十猛神
    •    大山咋神(おおやまくい)- 山の地主神、農耕の神
    •    大山祇神(おおやまつみ)- 山、海の神
    •    淤加美神(おかみ)- 水の神
    •    奥疎神(おきさかる)
    •    奥津甲斐弁羅神(おきつかいべら)
    •    奥津那藝佐毘古神(おきつなぎさひこ)
    •    奥山津見神(おくやまつみ)
    •    思金神(おもいかね)- 知恵の神
    •    淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神(おもだる・あやかしこね)
か行
    •    軻遇突智(かぐつち)- 火の神
    •    風木津別之忍男神(かざけつわけのおしお):⇒家宅六神
    •    春日神(かすが)
    •    家宅六神(かたくろくしん)
    •    金屋子神(かなやこ)- 鍛冶職人に信仰される神
    •    金山彦神(かなやまひこ)- 鉱山を司る神、荒金を採る神、鉱業・鍛冶の守護神
    •    金山姫神(かなやまひめ)- 鉱山の神、鉱業・鍛冶の守護神
    •    神大市姫神(かみおおいちひめ)- 農耕神・食料神
    •    神直毘神(かみなおび):⇒直毘神
    •    神皇産霊神(かみむすび)- 創造神
    •    賀茂建角身神(かもたけつぬみ):⇒八咫烏
    •    賀茂玉依姫(かもたまよりひめ):⇒玉依姫
    •    迦毛大御神(かも):⇒阿遅鉏高日子根神
    •    賀茂別雷神(かもわけいかづち)
    •    加夜奈留美、賀夜奈流美(かやなるみ)
    •    韓神(から)
    •    鹿屋野比売神(萱野姫神)(かやのひめ)- 草の神
    •    蚶貝比売、枳佐加比売命(きさがいひめ、きさかひめ):⇒蛤貝比売・蚶貝比売 - 赤貝の神格化
    •    木祖神(きのおや):⇒杉原大神
    •    木俣神(きのまた)- 木の神、水神、安産の神
    •    吉備津彦(きびつひこ)
    •    吉備津媛(きびつひめ)
    •    金鵄(きんとび、きんし):⇒八咫烏
    •    久延毘古(くえびこ)- 田・農業の神、土地の神、学業・知恵の神
    •    久久能智神(くくのち)- 木の神
    •    菊理媛神(くくりひめ)- 縁結びの神
    •    櫛磐間戸神(くしいわまど)
    •    櫛玉命(くしたまのみこと):⇒饒速日命
    •    櫛名田姫神(くしなだひめ)- 稲田の女神
    •    櫛真智命(くしまち)
    •    九頭龍大神(くずりゅう)
    •    国之闇戸神 (くにのくらと)
    •    国之狭霧神 (くにのさぎり)
    •    国之狭土神 (くにのさつち)
    •    国之常立神(くにのとこたち)- 始源神、根源神
    •    国之水分神 (くにのみくまり):⇒水分神- 水の神
    •    熊野速玉男神(くまのはやたまのお):熊野速玉大社
    •    熊野牟須美神(くまのふすみ):熊野那智大社
    •    熊野久須毘命(くまのくすび)
    •    闇淤加美神、闇神(くらおかみ)- 水神
    •    闇御津羽神(くらみつは)- 水の神
    •    闇山津見神(くらやまつみ)
    •    黒雷(くろいかづち、くろいかつち):⇒八雷神
    •    家都御子神(けつみこ):熊野本宮大社
    •    苔牟須売神(こけむすめ)
    •    巨勢姫明神、巨勢祝(こせのひめ、こせのほおり、こせのはふり)
    •    事解之男神(ことさかのお)
    •    事代主神(ことしろぬし)- 託宣神、海神、五穀豊穣商売繁盛の神
    •    木花咲耶姫神(このはなさくやひめ) 
   火の神、水神、妻の守護神、安産の神、子育ての神、酒造の神
    •    木花知流姫神(このはなちるひめ)
さ行
    •    賢彦名神(さかしなひこな)
    •    折雷(さくいかづち、さくいかつち):⇒八雷神
    •    福井神(さくいのかみ)
    •    辟田彦、杉原彦(さくたひこ、すぎはらひこ):⇒杉原大神
    •    辟田姫(さくたひめ):⇒杉原大神
    •    猿田彦(さるたひこ)- 道の神、旅人の神
    •    佐保姫(さほひめ)- 春の女神
    •    寒川比古命(さむかわひこ)
    •    寒川比女命(さむかわひめ)
    •    塩土老翁(しおつちのおじ)- 航海の神、潮流を司る神、製塩の神
    •    磯城津彦命(しきつひこ)
    •    思子淵神(しこぶち):⇒七シコブチ
    •    下照姫神(したてるひめ)
    •    志那都比古神(しなつひこ)- 風神
    •    級長戸辺命(しなとべ):⇒志那都比古神
    •    白山比咩神(しらやまひめ):⇒菊理媛神
    •    杉原大神(すぎはら)
    •    少彦名神(すくなひこな)
   国造りの協力神、常世の神、医薬の神、温泉の神、
   呪術の神、穀物神、知識の神、酒造の神、石の神
    •    須佐之男命、素盞嗚尊(すさのを):⇒、三貴子
    •    須勢理毘売命(すせりびめ)
    •    住吉三神(すみよし):⇒住吉大神
    •    諏訪大明神、須波大明神(すわ)
    •    瀬織津姫命(せおりつひめ)⇒祓戸大神
    •    底筒男命(そこつつのお):⇒住吉三神
    •    ソソウ神:⇒諏訪大神
た行
    •    高淤加美神、高龗神(たかおかみ)- 水神
    •    高皇産霊神(たかみむすび)- 創造神
    •    高照姫神(たかてるひめ)
    •    湍津姫神(たぎつひめ)
    •    田心姫神(たごりひめ)
    •    健磐龍命(たけいわのたつ)- 阿蘇山の神
    •    建葉槌命(たけはづち)- 織物の神、機械の神
    •    建比良鳥命(たけひらとり)
    •    建御雷之男神 (たけみかづちのお)- 雷、剣の神
    •    武水別神(たけみずわけ):⇒建水分神
    •    建御名方神 (たけみなかた):⇒諏訪(須波)大神
    •    建御名方富命彦別神 (たけみなかたとみのみことひこがみわけ)
    •    竜田姫 (たつたひめ)- 秋の女神
    •    手力男命 (たぢからお):⇒天手力男命
    •    玉祖命(たまのおや)
    •    玉依姫神(たまよりひめ)
    •    千鹿頭神(ちかと):⇒諏訪大神
    •    道俣神(ちまたのかみ) - 伊弉諾尊の袴から神に成る(「古事記」表記)
    •    撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ)
    •    月読命(月読尊、月弓尊、月夜見尊)(つくよみ、つくゆみ、つきよみ):⇒三貴子
    •    月読命 ( 月読尊、月弓尊、月夜見尊)(つくよみ、つくゆみ、つきよみ):⇒三貴子
    •    角杙神・活杙神(つぬぐい・いくぐい)
    •    土雷(つちいかづち、つちいかつち):⇒八雷神
    •    都麻津比賣神(つまつひめ):⇒大屋都姫・都麻津姫
    •    手名稚命、手摩乳命(てなづち):⇒脚摩乳・手摩乳
    •    年神、歳神、大年神、御年神、若年神、大歳神、正月様、恵方様、歳徳神(とし)
    •    豊受比売(とようけひめ)
    •    豊雲野神(とよくもの)
    •    豊玉姫神(とよたまひめ)
    •    豊日別大神(とよひわけ)
な行
    •    ないの神(地震の神)
    •    丹生都姫(にうつひめ)
    •    中筒男命(なかつつのお):⇒住吉三神
    •    泣沢女神(なきさわめ)
    •    鳴雷(なるいかづち、なるいかつち):⇒八雷神
    •    饒速日命(にぎはやひ)
    •    邇邇芸命(ににぎ)
    •    奴奈川姫(ぬなかわひめ)
は行
    •    波自加弥神(はじかみ)
    •    八幡神(はちまん、やはた)
    •    埴安神(はにやす)、埴安彦神(はにやすひこ)、埴山姫神(はにやまひめ)- 土の神
    •    祓戸大神(はらえど)
    •    早池峰大神(はやちね)
    •    比佐津媛(ひさつひめ)
    •    一言主神(ひとことぬし)
    •    火之迦具土神(ひのかぐつち):⇒軻遇突智
    •    比売大神(姫大神)(ひめ)
    •    蛭子神(ひるこ)
    •    伏雷(ふすいかづち、ふすいかつち):⇒八雷神
    •    経津主神、布都努志命(ふつぬし)
    •    布刀玉命、太玉命(ふとだま)
    •    火遠理命(ほおり)
    •    火須勢理命(ほすせり)
    •    火照命(ほでり)
    •    火雷大神(ほのいかづち):⇒八雷神
    •    火牟須比・火産霊(ほむすび):⇒軻遇突智
ま行
    •    御食津神(みけつ):⇒八神殿
    •    三島神(みしま)
    •    溝咋姫神(みぞくいひめ)
    •    罔象女神(みつはのめ)、弥都波能売神(みづはのめ)- 水の神
    •    御年神(みとし):⇒年神
    •    水内神(みのち)
    •    水光姫(みひかりひめ)- 水・井戸の神
    •    武塔神(むとう)
や行
    •    八重事代主神(やえことしろぬし):⇒事代主
    •    矢川枝姫命(やがわえひめ)- 諸芸上達・諸願成就の神
    •    八雷神(やくさのいかつち)
    •    八坂刀売神(やさかとめ)
    •    八十禍津日神(やそまがつひ):⇒禍津日神
    •    八咫烏(やたがらす)
    •    八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ):⇒国引き神話
    •    倭大国魂神(やまとおおくにたま)
    •    山彦、山幸彦(やまひこ、やまさちひこ):⇒火遠理命
    •    八意思兼神(やごころおもいかね):⇒思兼神
ら行・わ行
    •    若雷(わかいかづち、わかいかつち):⇒八雷神
    •    若宇加能売神(わかうかのめ)
    •    稚日女尊(わかひるめ)
    •    和加布都努志能命(わかふつぬし)
    •    稚産霊(わくむすび)- 穀物の生育を司る神
    •    別雷大神(わけいかづち、わけいかつち):⇒賀茂別雷命
陰陽道(道教)の神
    •    黄幡神(王番神、おうばん):⇒八将神
    •    河伯(かはく)
    •    関聖帝君(かんせいていくん):⇒関帝
    •    玄武(げんぶ):⇒四神、十二天将
    •    騰蛇(とうだ):⇒十二天将
    •    六合(りくごう):⇒十二天将
    •    天空(てんくう):⇒十二天将
    •    天后(てんこう):⇒十二天将
    •    大裳(たいも・たいじょう):⇒十二天将
    •    勾陣(こうじん):⇒十二天将
    •    金神(こんじん)
    •    歳刑神(さいけい、さいぎょう):⇒八将神
    •    歳殺神(さいさつ、さいせつ):⇒八将神
    •    歳破神(さいは):⇒八将神
    •    十二天将(じゅうにてんしょう)
    •    寿老人(じゅろうじん)⇒七福神
    •    神農(しんのう)
    •    朱雀(すざく)⇒四神、十二天将
    •    青竜(せいりゅう)⇒四神、五竜、十二天将
    •    鍾馗(しょうき)
    •    青面金剛(しょうめんこんごう)
    •    太陰神(たいおん):⇒八将神、十二天将
    •    大金神(だいこんじん)
    •    太歳神(たいさい):⇒八将神
    •    大将軍(だいしょうぐん):⇒八将神
    •    天一神(てんいち、てんいつ):⇒十二天将、中神、方位神
    •    歳徳神(としとく)
    •    白竜(はくりゅう)⇒五竜
    •    赤竜(せきりゅう)⇒五竜
    •    黒竜(こくりゅう)⇒五竜
    •    黄竜(こうりゅう)⇒五竜
    •    八将神(はっしょうじん)
    •    姫金神(ひめこんじん)
    •    白虎(びゃっこ)⇒四神、十二天将
    •    豹尾神(ひょうび):⇒八将神
    •    風神(ふうじん)
    •    福禄寿(ふくろくじゅ)⇒七福神
    •    方位神(ほうい):⇒方角神
    •    巡金神(めぐりこんじん):⇒金神
    •    雷神(らいじん)
民俗信仰の神
    •    アラハバキ神(荒脛神)
    •    淡島明神(あわしま)
    •    石神(いし):⇒磐座・神体、(しゃくじん・しゃくじ):⇒道祖神
    •    犬神(いぬがみ)
    •    宇賀神(うがじん)
    •    姥神(うばがみ)
    •    浦島太郎(水江浦島子)
    •    うわばみ
    •    胞衣神(えながみ):後産の神
    •    えびす(戎、夷、胡、恵比寿、恵比須、蛭子)
    •    鬼(おに)
    •    おしら様
    •    蚕神
    •    河童(かっぱ)
    •    座敷小僧(ざしきこぞう)
    •    座敷童子(ざしきわらし)
    •    シーサー
    •    志多羅神(しだらがみ)
    •    七福神(しちふくじん)
    •    辰子姫(たつこひめ)
    •    岐の神(ちまたのかみ)
    •    付喪神(つくもがみ)
    •    天狗(てんぐ)
    •    天道(てんとう)
    •    天女(てんにょ)
    •    天白神(てんぱく)
    •    道祖神(どうそじん)
    •    ビリケン
    •    貧乏神(びんぼうがみ)
    •    船霊(ふなだま)
    •    疱瘡神(ほうそう)
    •    ミシャグジ(みしゃぐじ様)※別称、別表記は数百種あるため割愛
    •    洩矢神(もりや、もれや)屋敷神(やしきがみ)
    •    疫病神(やくびょうがみ)
    •    夜刀神(やとの)
    •    屋根神(やね)
主な人神、現人神
日本人
    •    青木昆陽
    •    足鏡別王(あしかがみわけのみこ)
    •    安倍晴明
    •    天押帯日子命(あめのおしたらしひこ):⇒天足彦国押人命
    •    在原業平
    •    安徳天皇:⇒水天宮
    •    安閑天皇
    •    五十鈴姫神(いすずひめ)
    •    磐鹿六雁命(いわかむつかり)
    •    上杉謙信
    •    老松大明神(島田忠臣)
    •    応神天皇:⇒八幡神
    •    大石良雄ほか赤穂浪士:⇒大石神社
    •    大江元就(毛利元就)
    •    太安万侶:多坐弥志理都比古神社
    •    織田信長
    •    弟橘媛(乙橘媛、おとたちばなひめ)
    •    小野道風
    •    小野篁
    •    間宮林蔵、最上徳内、松浦武四郎ら開拓神社の諸祭神
    •    柿本人麻呂
    •    桓武天皇
    •    菊池武時
    •    菊池武重
    •    北政所吉祥女(島田宣来子)
    •    北畠親房
    •    北畠顕家
    •    楠木正成(大楠公)
    •    楠木正行(小楠公)
    •    栗林忠道ほか硫黄島守備隊
    •    黒住宗忠⇒宗忠大明神
    •    継体天皇
    •    児玉源太郎
    •    坂上苅田麻呂(苅田比古)
    •    坂上苅田麻呂の后(苅田比売)
    •    坂上田村麻呂
    •    高望王
    •    西郷隆盛
    •    西郷従道
    •    佐伯鞍職
    •    坂本龍馬
    •    佐倉惣五郎
    •    桜葉大明神(伊予親王)
    •    三条實美
    •    相馬師常
    •    早良親王(祟道天皇)
    •    四条山蔭中納言藤原政朝
    •    聖徳太子 :聖徳太子神社
    •    大国豊知主命(島津義久)
    •    精矛厳健雄命(島津義弘)
    •    島津斉彬
    •    昭和天皇:⇒人間宣言
    •    神功皇后:⇒住吉神、八幡神
    •    神武天皇:(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊・かむやまといわれひこ)
    •    崇徳天皇
    •    仙台四郎
    •    大正天皇
    •    平将門
    •    建稲種命(たけいなだね)
    •    高津姫
    •    高杉晋作
    •    武田信玄
    •    田道間守(たぢまもり)
    •    橘周太
    •    梅岳霊神(立花道雪)
    •    松陰霊神(立花宗茂)
    •    瑞玉霊神(立花誾千代)
    •    武振彦命(伊達政宗)
    •    天満大自在天神(菅原道真):⇒天満宮、眷属諸神
    •    東郷平八郎
    •    東照大権現(徳川家康):⇒東照宮
    •    高譲味道根之命(徳川光圀)
    •    豊国大明神(豊臣秀吉)
    •    中山忠光
    •    鍋島直正
    •    新田義貞
    •    二宮尊徳
    •    乃木希典
    •    仁康親王:⇒雨夜尊(あめや)
    •    稗田阿礼(ひえだのあれ):賣太神社・稗田神社
    •    平田篤胤
    •    広瀬武夫
    •    藤原鎌足
    •    藤原大夫人(藤原吉子)
    •    藤原秀郷
    •    藤原時平
    •    藤原師賢
    •    前田利家
    •    松平慶永
    •    満徳法主天(宇多天皇)
    •    聡敏大明神(水野勝成)
    •    源満仲
    •    源義家
    •    源頼光
    •    源頼朝
    •    明治天皇
    •    昭憲皇太后
    •    毛利敬親
    •    和気清麿
    •    和気広蟲
    •    山内豊信
    •    日本武尊
    •    倭姫(やまとひめ)
    •    結城宗宏
    •    吉田松陰:⇒松陰神社
    •    靖国神社に祀られる軍人・軍属を主とする246万6532柱(2004年10月17日現在)の英霊
    •    軍神
    •    六芸神(ろくげい)
外国人
    •    高麗若光
    •    鄭成功
    •    蒋介石(愛知県幸田町中正神社)
    •    林浄因
    •    ジョン・キャンベル(靖国神社) :⇒常陸丸事件
    •    ロベルト・コッホ(北里神社)
琉球の神
    •    天帝
    •    あまみく(阿摩美久)、あまみきよ、しねりきよ、あーまんちゅ
    •    あーまん
    •    キンマモン
    •    竜宮神
アイヌのカムイ
カムイは、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在である。
    •    コタンカラカムイ
    •    コタンコロカムイ(カムイチカプ)
    •    フリ
    •    パヨカカムイ
    •    アペフチカムイ(火の神様)
    •    キムンカムイ(山の神様;一般的にヒグマを指す。キンカムイとも。)
    •    ウェンカムイ(悪の神様;一般的に人間を襲うヒグマを指す。キムンカムイが変化したもの。)
    •    レプンカムイ(沖の神様;一般的にシャチを指す。)
    •    オキクルミ(オキキリムイ)
新宗教/その他の神
    •    教派神道系
    •    天地金乃神(てんちかねのかみ)- 金光教
    •    艮の金神(うしとらのこんじん)- 大本教
    •    諸派系
    •    天理王命(てんりおう)=親神(おやがみ)- 天理教
    •    大光明主神(みろくおおみかみ)- 世界救世教系諸教団の多く
    •    御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおおみかみ)- 真光系諸教団の大部分
    •    エル・カンターレ(える・かんたーれ)-幸福の科学の根本仏・地球神
日本の神に付随する用語
    •    荒神(あらかみ、あらがみ、こうじん)
    •    市神(いち):⇒神大市姫神・大宮能売神・市杵嶋姫神など
    •    井戸神(いどがみ):⇒木俣神・水神
    •    稲荷神(いなり)
    •    氏神(うじがみ)
    •    厩神(うまやがみ)
    •    海の神:⇒海神(わたつみ、うながみ、かいじん)
    •    陰陽道(おんみょうどう)
    •    竃神(かまど)
    •    御霊信仰(ごりょうしんこう)
    •    古神道(こしんとう):ここでは外来宗教が入る前の原始神道を差す。
    •    別天つ神(ことあまつ)
    •    金精神(こんせい)
    •    地主神(じぬしの、ぢぬしの)
    •    神代七代(じんだいしちだい、かみよななよ)
    •    水神(すい)
    •    造化三神(ぞうかさんしん)⇒別天つ神
    •    祖神:⇒氏神(そしん)
    •    祖霊信仰(それいしんこう)
    •    祟り神(たたり)
    •    田の神(た)
    •    岐の神 (ちまた)
    •    鎮守神 (ちんじゅ)
    •    天神様(てんじんさま)
    •    道教(どうきょう) 
    •    独神(ひとりがみ)
    •    人神(ひとがみ)
    •    仏神(ぶっしん):⇒仏の一覧
    •    御子神(みこ)
    •    ミサキ神:⇒八咫烏
    •    三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)
    •    御酒殿神(みさかどののかみ)
    •    三貴子(みはしらのうずのみこと)
    •    四至神(みやのめぐり)
    •    民間信仰(みんかんしんこう)
    •    宗像三神(むなかた)
    •    厄神(やく)
    •    屋敷神(やしき)
    •    屋根神(やね)
    •    山の神(やまの)
    •    ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)
    •    龍神(りゅう、たつ):⇒竜
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2016年

9月

07日

ポケモンGOと出雲大社

ポケモンGOがブームとなっている。スマホを持った人たちが日本全国津々浦々を巡っている。このことは全く新しい現象である。ゲーム世界をリアル空間に拡張したこのゲームは、文化的にも新鮮である。
それはさて置き、出雲大社が、早々と境内でのポケモンGOの使用を禁止した。常識的な見解では、恐れ多いカミの神域を、俗世のゲームを持ち込んで汚さないで欲しい。としたと思われるが、しかし、もしかすると、出雲大社の神々と、ポケモンのモンスターに同質なものを感じて禁止に至ったのかもしれない。大国主命とヒカシューは同根かもしれないのだ。古代と現代の神話の主人公がこの両者であるのだ。日本では「桃太郎」のように物語のヒーローがカミなのだ。脇役がモノノケであったりオニであったりする。元々ポケモンは、昆虫採集がプロトタイプであったと聞いているが、そのモンスターたちはモノノケと言ってもいいと思う。またこの現象は、日本のカミの世界も実はバーチャルな情報世界であることを露呈する。神社の結界を張った神域は、実はバーチャルなアチラの世界なのだ。であるからこそ、人々はカミに祈って甦り、再生し、元気になるのだ。

2016年

9月

02日

カミと神。八百万のカミとは

 

日本のカミは、人間社会の創造神である。社会の外側から社会に影響を与える存在である。これに対してキリスト教の神は宇宙の創造神である。宇宙の外から全てをコントロールする神である。

 

独自の多神教世界である日本の八百万(やおよろず)のカミは、風や水や岩、樹木などの自然の精霊のたちから始まり、神話や実在のヒト、英雄たちであり、人間の社会に深く影響を及ぼした存在である。人々はそのパワーや祟りを恐れながらも祀ることによりカミの加護と現世利益を得ようとする。そんなカミは、祭の度に、彼岸からやってきて此岸である人里にサチやエネルギーを授けるマレビトでもあった。

八百万の神々は、キリスト教やイスラム教の神とは根本的に異なっている。日本の神社をみると、平安神宮は桓武天皇、明治神宮は明治天皇と実在の天皇であり、北野天満宮は菅原道真、東京の乃木神社は明治に日露戦争で活躍した乃木大将が祀られている。もちろん豊臣秀吉や徳川家康もカミになっている。いわば凄いヤツが祀られている。彼らは大抵、新しい社会を作ったり、社会に大きな影響を与えた英雄たちである。それ故、日本のカミには、独自の物語があり、縁結びであったり、学問成就であったり、病気治癒であったり、そのキャラクターごとに人々は参詣先を選んでいる。おそらく日本のカミは、縄文期のアニミステックな地域や部族に根ざした自然神が、大和朝廷成立後に古事記・日本書紀などの神話成立時に再編成されたものが八百万の神々であったと考えられる。

 

それに対して、一神教の神、例えばキリスト教やイスラム教の原典とされるユダヤ教の旧約聖書では、自然や地域に散在する多様な神々は退けられ唯一絶対の神、Godが登場する。この神は、多神教の神々より抽象度の高いメタレベルの神であったのだ。それゆえに社会を超えた宇宙の創造神であり、かつGod自身が創造した「人間」が担うべき掟を人間に命ずる存在でもあるのだ。

 

この違いが基底文化の違いとして現代の文化・社会・個人にまで深く影響を及ばしている。

 

 

2016年

2月

06日

お祓いと支払(オハライとシハライ) 

日本語には、シハライとオハライという何か紛らわしい怪しい言葉がある。 

オハライは、取り憑いたモノノケや汚れを神社のカミにお願いして取り除いてもらう行為である。 

一方、シハライは、日常、必要となった欲求を満たすためにモノを買って、商品というモノを相手から自分に付ける(憑ける)ことだ。相手のモノが自分に移動するから、それと同等のモノ(お金)を払う(ハラウ)のである。つまりモノの価値として「サチ」(幸=モノ=タマ)を身に取り込み、それ相当のモノ(お金=タマ)のやりとりが、モノの取引の本質である。お金には、「サチ」に見合った同等の価値(モノ=タマ)が宿っているのである。 いわばカミ(タマ=モノ=カミ)の交換と言ってもいいのだ。

 

古代においては森羅万象の奥底に流動する「タマ」(精霊=自然エネルギー体)が豊かな自然をはぐくみ、そこから人は食物や生きる力をもらって生きていた。「タマ」は、人間の社会ではコトダマとして言葉と事に影響をあたえ 、この世の富や幸や生命を増殖させるエネルギー体であった。その見えない「タマ」が、社会の背後で流動する姿は、現代社会における市場システムの中でうごめく「貨幣 」に驚くほど似てはいないだろうか。

 

本稿の趣旨から言えば、貨幣はタマ(モノ=精霊)である。現代社会の入り組んだ記号や情報の森の中で、貨幣はその森に生息するタマ(精霊)のように活動している。従ってシハライとオハライは同じことなのだ。タマ(貨幣)は、市場システムの中を憑いたり離れたりして流動していきながら 、いたるところで物質的な変態をおこしていく。時には流動するタマ(貨幣)はモノノケとなって人々を襲うこともあるのだ。その流動のプロセスがよどみなく活発に活動する時 、現代人は、景気がよいと思い、生活の豊かさを実感しているのだ。

 

2015年

12月

01日

ゲゲゲの鬼太郎

 

水木しげるが亡くなった。彼の生み出した「ゲゲゲの鬼太郎」は今では世界中のファンに愛されている。日本のマンガやアニメの世界が表現しているその多くは「この世にないもの」である。

それらの特徴の一つはあちらの「もののけ」と,こちらの日常世界が渾然一体なのである。日常心理のなかにあちらが溶け込んでいるのだ。もちろん世界中に妖精物語は多くある。ハリーポッターやシンデレラはその例である。世界中の神話や民話を比較すると共通点が見出せる。それを神話素という。人を感動させる仕組みだ。これによって物語は世界に拡がっている。しかし、日本ならではの魅力の素もあるのだ。メードインジャパンのキャラクターを並べて比較するといわば「日本の素」が見つかるかもしれない。

 

あちらの世界で跋扈する「鬼太郎」のような「妖怪」や「もののけ」たち。また、まだ見ぬ未来世界。ドラえもんから新世紀エバンゲリオン、ガンダム、AKIRAまでのSFの世界。実際、世界中の子供たちがファンなのである。なぜ日本のマンガやアニメは世界にファンを持つのか?これも日本の不思議の一つだ。

 

メイドインジャパンの代表であるクルマは、ヨーロッパ発祥の自動車とアメリカ発祥のオートメーションを採り入れ、世界で有数の自動車生産大国になった。多分、そのこととマンガ・アニメの世界化は、基層で繋がっているはずだ。マンガ・アニメもディズニーやポパイなどアメリカの作品群、ヨーロッパのアニメ文化から多大な影響を受けている。しかし日本製はそれらとどこかが違うのだ。多分、このWonder JAPANの「日本の秘密」が指し示している日本独自の多神教文化とカミの作用が関係しているに違いない。

鬼太郎とトヨタプリウス、大勝軒のラーメンを比べて「日本の素」を見つけてみよう。

 

2015年

10月

16日

空気の話 無意識に支配される日本人


「反対できる空気ではなかった」戦後の東京裁判で被告席に立った軍部の幹部たちの言葉である。現代でも「空気」が社会、企業、学校に満ちている。さらに「空気の読める人」が重んじられ、「空気の読めない人」や「空気にはむかう人」は、まわりから疎んじられる始末である。空気とは何だろう。物事、モノとコトの背景に日本人は気配を感じる民族だ。石にも樹にもカミが宿っている。その気配の陰に、カミ、モノノケが宿っているのだ。コト(コトバ)に宿るモノノケの一例として「清潔」がある。病気を防ぐために清潔であることは重要である。戦後「清潔」が叫ばれはじめた頃には、その根拠として科学的な根拠が示されたが、その内に「清潔」が一人歩きし始める。気が付いた頃には絶対的な言葉としての「清潔」となる。言霊となった「清潔」は、もう一つのカミである。「清潔」という一般的で相対的な概念であったものが、特殊記号的に絶対化してしまうのだ。こうなると「清潔」を否定できない空気ができてしまう。したがって、これに対立する「不潔」は絶対の悪になってしまうのである。時代の常識が立ち上がる。このようにして世の中には多くの神々(モノノケたち)が跋扈しているのである。環境問題の社会的流れ、公害から地球温暖化、エコロジー、エコへと変化しながら漂う言葉たちなどが「空気」をかたちづくった例は多い。現代では「エコ」が主流でもう「公害」とはあまり言わなくなった。一時は絶対化して空気となったカミやモノノケも時間の経過にしたがい別のカミやモノノケに変化している。空気に支配されることは、日本の多神教文化の問題点であるといえる。

2015年

10月

01日

現代に生きる縄文1万年。 原日本文化とは

浅草で外国人に人気の旅館がある。こちらでは宿泊1日目の夕食には必ず鍋料理を出すそうである。「日本を理解していただくには鍋料理が一番です」旅館の主人は語った。箸と箸で突き合う鍋料理は、コミュニケーションを促進し、相手への気遣いが生まれるそうである。それはともかく鍋料理のルーツは縄文時代である。縄文の人々は部族単位に、統一国家も作らず1万年もの間、森羅万象からの幸(サチ)を分け合い、土地のカミを祀り、鍋を囲んで生活していたのだろうか。その後、時代の変化が訪れる。縄文から弥生への移行である。弥生期から始まる大きなイノベーションは、鉄器の流入、稲作の普及と東進、統一国家大和朝廷の成立、仏教の渡来、漢字の導入などである。1万年の縄文文化を背景に彼らはなんなくそれらを受け入れていくのである。

森羅万象には様々なカミ(モノ)がいる。拝む対象もいろいろある。多様な選択肢のなかでのさまざまなものを採り入れる。しかし自分たちに本来、身についた大本の文化は変えない。人々は、生活に恩恵をもたらすカミはもてなして祀り、大きな祟りを与えるカミは、これを畏れて祀る。小さな神々もその都度に祀る。多様なコードを採り入れ、自分のモードにしてこれを使う。それが縄文アニミズム文化であったのではないか。

キリスト教が日本の伝わった時、当時の信者たちはマリア菩薩を作って、これを拝んだ。キリスト教と仏教を混ぜたのだ。一神教であるキリスト教にとっては、これはあってはならないこと。宣教師たちは大いに困ったそうである。人間は猿から進化したというダーウインの進化論が明治になって入ってきた時も、日本人はすんなりと受け入れたそうだ。欧米では現代でも抵抗する人たちもいるらしい。

クリスマスはサンタクロースでキリスト教、大晦日は除夜の鐘で仏教、正月は初詣で神道。いまだに日本は変わっていない。いま世界中に拡がっている日本のアニメ文化もこれに乗っかっている。みなさん、どう思います?

2015年

9月

25日

タタラ 古代のスーパーテクノロジー


武士の魂、日本刀は日本のものづくりの象徴である。日本神話にあるヤマトタケルの神剣「草那芸剣(くさなぎのつるぎ)」などスーパーな力を発する剣は有名だ。その日本刀の材料となる鉄が玉鋼(タマガネ)である。この玉鋼は、古来からの製鉄法「タタラ」で作り出される。宮崎駿の「もののけ姫」に登場する三日三晩ふいごを足で踏むあのタタラである。炉のなかに砂鉄を入れ、多量の木材を燃やし、ふいごで風をおこし高熱を維持する。砂鉄量の2割程度の「ズク」といわれる純度の低い鉄と、少量の高純度の玉鋼ができる。この玉鋼が日本刀に使われているのだ。古来からタタラ製鉄の有名な生産地は、奥出雲地方である。奥出雲では現代でもわずかながらタタラが継続されているようだ。この地には、タタラのカミを祀る金屋子神社があり現代の製鉄メーカーも神社の氏子なのだ。
技術にカミが宿れば、製品にもカミが宿る。これを使う人にもカミが宿るのである。


2015年

9月

04日

富士山 こころのランドマーク


富士山が世界文化遺産に登録された。富士は日本人にとってカミの山である。決して人が登山して征服する山ではない。富士のカミは、日本神話で高千穂峰に天孫降臨したカミ、ニニギノミコトが娶った女神コノハナサクヤヒメである。多くの日本の霊山のカミは女神である。江戸時代に富士への信仰、富士講が盛んになり多くの人々が富士山頂を目指した。

静岡への旅の途中で、私は就職が迫っている少年と出会った。彼は爽やかな口調で「僕は一生、富士が見える場所で過ごします」といった。富士は山以上の何かなのだ。

おそらく富士山は稜威(イツ)そのものではないか。此岸から彼岸に詣る。彼岸から戻ってくることで元気になり蘇る(黄泉帰る) のだ。日本の景観の典型として富士をのぞむ風景がある。銭湯の絵が有名である。東京の街には今も、富士見台とか富士見坂などという地名も多い。人々は誰しもある憧れと親しみを持って富士を眺めるのだ。そのことは人々の日常世界の景観の中に、それを超えた彼方の世界を象徴する富士の姿が、富士の姿の向こう側の彼方の世界を指し示すアイコンとなっているのかもしれない。

 

◎富士百景 日本万華鏡Photo Galleryへ


2015年

8月

28日

京都の神社、寺院の数を知っていますか?

 

日本文化を象徴する都市は、やはり京都だ。京都の特徴と言えば神社、寺院の数の多さであろう。一体どれくらいあるのだろう。調べてみると正式に登録されているもので京都市内の神社がおよそ800、寺院がおよそ1700もあるそうだ。ずいぶんと多い。しかし日本全国の神社、寺院の数をみると、驚くことにおよそ神社は8万8000、寺院は7万7000にのぼるのである。また意外にも神社の多い県は新潟県がトップでおよそ5000、寺院のトップは愛知県が5000なのだ。とんでもない数である。ちなみに全国のコンビニの総数がおよそ5万5000、郵便局が2万4000である。日本全体で神社と寺院の数をあわせると16万ヶ所という規模は、通常、一般の日本人の自宅から徒歩5分以内に1〜2件ある計算になるそうだ。地蔵などを祀ってある祠や、道祖神、道端の稲荷などを含めるとすごい数が考えられる。子供時代に神社や寺院の境内で遊んだことのある日本人は多い。神社や寺院は、現世(此岸)で生きる人々にとって彼岸への入口であり通路である。これが現代でも現実に脈々と生き続けている。やはり多くの日本人はカミ・ホトケと無自覚ながら確実につながっている。

 

2015年

8月

13日

天皇   祟る王


天皇制は最も素晴らしい日本の発明だ。現代まで1700年間継続した王制は世界に類例をみない。天皇霊を継承している人が天皇である。したがって天皇の身体は天皇霊の乗り物である。天皇霊は森羅万象の神々と繋がっている霊的な大自然の象徴である。したがって人々にとって天皇に刃向うことは大自然を敵に回すことになる。大きな祟りが人々を襲うことになるのだ。人々は1700年の間、畏れ多い存在として天皇を祀ってきたのだ。天皇は人々から拝礼されるたびに人々のタマを付けて霊威を増していく。つまり天皇を拝礼する意味は、あなたの僕(しもべ)になりますということである。タマを天皇に差し出すのだ。これを「寿言(よごと)」という。これと共に天皇は、人々へ自らのタマを分け与えていく。サチの分配である。春と秋の園遊会の時、また震災地の訪問の時、天皇の役割が見える。政治的実権を持たないゆえに現在も綿々と存続している。



2015年

8月

12日

なぜスティーブ・ジョブズはヒット製品を出せたか?


アップルの創始者スティーブ・ジョブズ。末期ガンの宣告を受けていた彼はスタンフォード大学のスピーチで卒業生たちに投げかけた言葉は、

『私は死ぬのだ。この現実こそ、自分を《もしかしたら、何かを損するかもしれない》という幻から覚ましてくれる。私たちは最初から裸ではなかったのか。自分の心に忠実に生きない理由は一つもない』

「Stay hungry. Stay foolish!」

ジョブズの魂と禅の精神がよく似ているのは、けっして偶然ではない。ジョブズは乙川弘文(おとがわ こうぶん)老師という、アメリカで布教していた日本の禅僧に師事していた。欧米のフロントランナーが禅に傾倒しているということは、けっして珍しいことではない。ジョブスは禅を通して日本のエッセンスを捉えていた。禅の庭のような無駄を排した超シンプルなデザイン。陶器のような道具として洗練された暖かいカーブを持ったプロダクト。彼はよく家族とともに京都へ来ていたそうである。骨董を見る目は一流であった。おそらく彼は、前述した名人の域に達していたに相違ない。まだこの世にない新製品のリアルな姿が見えていたのだ。彼にとってIT業界の有象無象のマーケティング商品は、色=現象=雑念でしかなく、それらを滅した空の世界にiPhoneが点滅していたのかもしれない。



2015年

8月

12日

悟りとは? 現代の認知科学の視点から

ものごとの理解とは、世界の姿を五感で受け止め、脳が情報処理した結果のことををいう。すべてが情報なのだ。一般的には、見たものは事実、考えたことは観念というように二元論として扱われてきた。認知科学では、それら感覚情報と思考情報を情報の抽象度の相違として一元論として扱う。これにより身体と心と言語、物理世界と心理世界、さらには唯物論と観念論が共通の情報空間として克服されたということになる。

人は見たいものしか見ていない。脳は過去の記憶などを適度にハイブリッド化して省エネモードで視覚情報を処理している。見たつもりでも実は何も見ていないことがたびたび起こるのだ。つまり視覚には死角がある。物理的にも網膜は、神経の束の集まる部分は外界の像を映していない。しかし脳はこの欠落している点を あたかも見えているように補正処理している。この盲点をスコトーマという。この曖昧さは五感すべてで起こる。人の認識は穴だらけの情報空間なのである。

「さとり」とは、このスコトーマが外れた状態をいうのだ。驚くことに仏教は、2000年以上も前から人の認識そのものが情報空間であるとし、この死角だらけの情報空間自体を虚妄であるとしていた。色即是空である。インド発、中国経由で日本化した仏教は死後の世界を説くことで、日本のカミの世界とクロスしていったが、彼岸の世界を遠くに置き、あまりに拡大させ実体化したことが失敗であったようだ。日本人の無意識の中では、此岸と彼岸は渾然一体化しているにちがいない。

 

2015年

7月

29日

田舎の宇宙  里山と鎮守の森

高齢化と過疎化が進んでいる田舎では、都会の若い人に向けて田舎暮らしを奨励しているそうだ。しかし自然豊かでのんびりした生活に憧れた都会の若者たちが移住しても、その5人に1人はまた都会に舞い戻るそうである。いかにも自然がいっぱいの里山の景観は、実は人の手の入った人工の景観なのである。つまり村人たちが先祖代々共同で手入れした生活空間が里山と言えるのだ。稲作のための棚田は一年中、手入れが欠かせない。氏神を祀る鎮守の森は、村人共有の大切な場所である。村人は村の中での役を担っている。祭の準備、稲刈りなど農作業の手伝い、屋根の吹葺き替えや水路の補修などの共同作業。それは、子どもの頃から鎮守の森などで一緒に遊び、育ってきた仲間意識を前提としている。長老から子どもまで、村全体が家族なのである。田や畑が生産の場であるなら、鎮守の森の神社は祈りの場、山や川、道路や水路、集会場、店や駅までが村の宇宙の一部なのである。したがって隣村との境には今でも赤いエプロンが掛けられた地蔵や馬頭観音、道祖神などが祀られている。これに馴染めないない若者たちは、移住して来ても街へ帰えるしかないのである。伝統的な村社会は、日常の隅々まで人の手が入った濃密な一個の宇宙であった。だからこそ河童や座敷童などの数々の物語も生まれていた。しかし現代では、その村々は過疎化でかつての手の込んだ濃密な宇宙が維持できなくなっている。


2015年

7月

29日

家制度と墓

戦後の都市化、核家族化、地方の過疎化などで、すっかり日本の家制度は形骸化してしまったようだ。現代は個人が家よりも重視され、老後のこと、死後のことは家族、親族の間でも先送りされてきた。現在、日本は高齢化社会に突入して、もう逃げることのできない状況に立ち至っている。民俗学の柳田國男は、墓について遺体を埋葬する墓とタマ(霊)を拝礼する墓に分けて考えている。タマを重視するからだ。沖縄では、昔、風葬が主流であり埋葬の習慣はなかったそうだ。江戸時代の庶民は個人墓は稀だった。などなど実は、人の死後の取り扱いは、時代と場所で様々であったのだ。したがって、いまの常識、人が亡くなると菩提寺に戒名、葬式、法事を依頼し先祖伝来の個人墓にお骨を収めることにこだわることはないのだ。現代のほとんどの人が自分の曾祖父さん曽祖母さんより前の世代を知らない。会ったことがないから当然であるが、現代人は知らないことは自分に関係がないと思いがちだ。

一度、面々とつながる先祖のタマの流れをイメージしてみよう。

カミを祀る神社は、初詣や結婚式など、はじめを祝う宗教となり、除夜の鐘や葬式など終末を弔うのは寺院が取り持つことになってしまった。もともと江戸時代までは、神宮寺といって神社と寺院が同居して神官がお経を読んでいた時代もあったのだ。

現代では、自分の遺骨は海など自然の世界へ戻して欲しいという人々が増えているようだ。人は死んでタマにもどることからすれば、亡骸や遺骨を大自然に戻して行くことのほうが理にかなっているのではないか。沖縄のように死んだ人のタマは彼岸、ニライカナイに赴き、またある日、此岸に戻って孫やひ孫をサポートする。そんな考え方の方が、閻魔大王の裁きを受けて地獄に堕ちる物語よりも楽しいではないか。


2015年

7月

29日

日本の頑固親父が消えた

仮に、「生きると言うことは自らのエネルギーを存分に燃焼させること」であるとすると、最近の親父たちはどうも元気がない。戦前、日本中を歩き回った民俗学者宮本常一は、昔の普通の日本人は、学校教育も十分に受けていないし、村から出ることもなく情報も持っていなかった。したがって何かを決める必要が生じた時には、合理的、理性的判断ではなく、勘と経験でものを言った。結論が明らかに間違っていることも平然と決めていたらしい。この「決める」役割が家族内での親父の役割であったのだ。その決定に対して当然、反抗する者もいた。そこで争いや確執も生じた。つまり負のエネルギーが高まったのだ。このエネルギーをバネにして息子たちは親父を超えていったのではないだろうか。娘たちは恋を成就したのではないだろうか。現代の親父も、自らの優柔不断を脱し、「決定」できる頑固親父として蘇るべきなのだ。


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2015年

7月

29日

家族の中でのおもてなし

現代の日本の女性が男性を選ぶとき「やさしいひと」がベストワンらしい。海外では「勇気のあるひと」が「やさしいひと」よりも人気だそうだ。家族は通常、男性と女性で構成される。どの家にもそれぞれの家の事情がありその家ごとの世界を形作っている。家庭は、男性のこころと、女性のこころが混じり合って形成されている。男性のこころは、「勇気=恐れ=強い〜おおらか」がキーワードで、女性のこころは「やさしい=許し=守り〜優雅」がキーワードかもしれない。これは、カミの二つの性質である。

昔の家には、仏壇があり、神棚もあった。その上、台所のかまどの上、便所などにもカミが祀られていた。いわば家庭の中は神々の宇宙でもあったのだ。一年を通してカミを祀る日も決められていて家庭内で小さな祭が執り行われていたのだ。

沖縄でカミに供える水を汲みに来ている女性と会ったことがある。家庭の神々を祀るのは女の役目と言っていた。沖縄は今だにカミが近い世界だ。日常生活でカミをもてなす習慣は、子どもたちにも受け継がれ、人をもてなすこころも同時に育つ筈だ。


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2015年

7月

29日

訪問販売と御用聞き

現代ビジネスの世界での通念は、データやシステムが優先しているようだ。したがって一般の会社員も、言葉の上では個性重視としながら実際は個性を失って久しい。みんな同じような顔付になってきている。会社の名前で仕事をして、個人名は極力抑え気味である。しかしそれでいいのだろうか。ちょっと気の利いた企業は、企業ブランディングを行い、法人としての社会イメージを形作っている。社会的知名度や信用を確立している。そのためか社員は、自分の顔を隠し、会社の顔を前に出すことがいつしか常識となっている感がある。しかし立ち止まってちょっと考えてみよう。本当のビジネスは、もっとドロ臭いものではないだろうか。商売の神様、松下幸之助神話に「毎日、営業先の店先を掃除する営業マン」の話がある。この営業マン氏は、結局、営業先の社長に顔を覚えてもらい受注に成功したのである。結局は、人と人との繋がりが人の世界である。家庭も学校も、そして仕事もそうではないだろうか。ヤクルトおばさんは、全国津々浦々でいまだに活躍している。御用聞きは間もなく盛り返すに違いない。


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