ワンダーコラム
2017年
11月
11日
土
縄文人の尾っぽを付けた日本人
縄文人の尾っぽを付けている現代人。1万年もの狩猟採集文化を続けるなかで、その野性的な文化は洗練され日本人の魂の基底となった。現代でも縄文料理の定番、「鍋」を楽しみ、盆や正月には、先祖の霊が集う故郷を目指す日本人の姿がある。とかく現代の常識は、五穀豊穣を中心とした稲作文化に傾きがちであるが、この列島では、山や森を舞台とした文化(マタギなど)が先行していたのだ。古い時代の文化が残る沖縄や北方民族アイヌには、ヒトはあちらからやってきて生まれ、また死んであちらへもどるのだ。アイヌの熊は、あちらから熊の姿でやってきて、ヒトにみやげとしての自らの美味しい身を与え、ヒトは、みやげを受け取る代わりに、熊のタマを無事にあちらへこころを込めて送り出さなければならない。これがイオマンテの祭りである。こころを込めて送り返された熊のタマは、あちらにもどり、こちらのことを満足げに仲間に話し、またこの世に仲間と共に熊として戻ってくるのだ。つまり、生きとし生けるものすべてのタマはあちらとこちらを行き来する存在なのだ。この野生の思考が、現代人にも先祖崇拝としてこころの底に生きている。現代では、仏教が先祖崇拝を担っているが、実はルーツは仏教以前の生活習慣であったのだ。ヒトとクマの交流を描いた宮沢賢治の美しい童話がある。ぜひ読んでみてください。
なめとこ山の熊
宮沢賢治
なめとこ山の熊《くま》のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢《ふちざわ》川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴《ほらあな》ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
中山街道はこのごろは誰《たれ》も歩かないから蕗《ふき》やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁《に》げて登らないように柵《さく》をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆《い》も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆《い》は名高いものになっている。
腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆《い》ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲《なぐ》りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。
淵沢小十郎はすがめの赭黒《あかぐろ》いごりごりしたおやじで胴は小さな臼《うす》ぐらいはあったし掌《てのひら》は北島の毘沙門《びしゃもん》さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹《マダ》の皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃《せいばん》の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯《のぼ》っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金《きん》いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖《がけ》を横這《よこば》いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝《ひざ》から上にまるで屏風《びょうぶ》のような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼《め》をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈《はげ》しいやつならごうごう咆《ほ》えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹《き》をたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。
「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射《う》たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰《たれ》も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。
何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢《せきり》にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。
それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎《あご》のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆《い》をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。
小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯《みね》になった処《ところ》へ去年の夏こさえた笹小屋《ささごや》へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。
なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水《わきみず》のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕《おどろ》いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二|疋《ひき》ちょうど人が額に手をあてて遠くを眺《なが》めるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付《くぎづ》けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」
子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
小十郎もじっとそっちを見た。
月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧《よろい》のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃《コキエ》もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」
「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退《あとずさ》りした。くろもじの木の匂《におい》が月のあかりといっしょにすうっとさした。
ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆《きも》を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。
町の中ほどに大きな荒物屋があって笊《ざる》だの砂糖だの砥石《といし》だの金天狗《きんてんぐ》やカメレオン印の煙草《たばこ》だのそれから硝子《ガラス》の蠅《はえ》とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金《からかね》の火鉢《ひばち》を出して主人がどっかり座っていた。
「旦那《だんな》さん、先《せん》ころはどうもありがどうごあんした」
あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮《てい》ねいに敷板に手をついて言うのだった。
「はあ、どうも、今日は何のご用です」
「熊の皮また少し持って来たます」
「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」
「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉《く》んなさぃ。安くてもいいます」
「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗《くり》があったしうしろのまるで少しの畑からは稗《ひえ》がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌《みそ》もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤《ふじ》つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で言ったもんだ。
「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉《く》なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。
主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。
「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」
店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。
「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」
小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談《はな》す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳《ぜん》できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶《あいさつ》をしている。
間もなく塩引の鮭《さけ》の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。
小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口《ちょこ》についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰《たれ》でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐《きつね》けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。
こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。
小十郎が谷をばちゃばちゃ渉《わた》って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫《ねこ》のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦《おおよろこ》びで木の下に行って木のまわりを烈《はげ》しく馳《は》せめぐった。
すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射《う》たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆《きも》のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「婆《ば》さま、おれも年|老《と》ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌《や》んたよな気するじゃ」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩《うまや》の前から顔を出して「爺《じ》さん、早ぐお出《で》や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。
小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗《ひえ》の藁《わら》でふじつきをして遊んだ。
小十郎は白沢の岸を溯《のぼ》って行った。水はまっ青に淵《ふち》になったり硝子《ガラス》板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺《かば》の幹の影といっしょに雪にかっきり藍《あい》いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲《す》んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡《めがね》をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖《がけ》でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆《ほ》え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐《あらし》のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛《か》み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光《りんこう》をあげた。すばるや参《しん》の星が緑や橙《だいだい》にちらちらして呼吸をするように見えた。
その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環《わ》になって集って各々黒い影を置き回々《フイフイ》教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸《しがい》が半分座ったようになって置かれていた。
思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴《さ》え冴《ざ》えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より
2017年
10月
07日
土
言葉と無意識
2017年
9月
26日
火
脳内無意識に遍在する神々
2017年
9月
25日
月
いま何故、日本なのか
本サイトは、日本という文化の独自性や特徴に、古い日本のカミが関わっていることを検証する試みである。八百万(やおよろず)のカミという多神教文化を有し、世界史的にも辺境の地であった日本列島に起こった文化が、いま世界の脚光を浴びはじめていると思うのは著者だけだろうか?
縄文時代から現代に至るさまざまな出来事と日本の神々との関わり解明し、そのカミの構造と機能が特定できれば、あたかも薬草から薬の成分を絞り出すように、従来の宗教の枠にとらわれない新たな観念装置としての「カミ」は、現代的な事物への活用が可能となると考える。 文明史的にも、アジアの東端に位置する日本は、古代から文明の中心ではなく、いわば辺境の地、イナカであった。それ故、いつでも文明の中心地からオリジナルを取り入れ、カスタマイズしてハイブリット化する独自の文化を作り出した。そのカスタマイズの「妙」に、日本のカミ概念が関係していると思われる。
これらは、すでに具体的な成功事例が数多く存在している。本ブログでも紹介したアップルのジョブスのiPhoneイメージの中心には「日本のカミ」が隠されている。三宅一生やケンゾウのヨーロッパでの成功は、「日本」を色や形に現代化した結果である。モノマネから出発した戦後の日本のものづくりは、後発にもかかわらずオリジナルを凌駕した。いわばニセモノが本物を超えたのだ。 これらには「日本のカミ」が隠されている。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」などのアニメ作品には、現代化された「日本のカミ」が活躍している。現代の日本社会には実体のない表象としてのキャラクターが各処に浮遊している。それらはそれぞれに小さな物語りが付属し、それはあたかも愛らしいモノノケのようだ。
このことは、ナショナリズムでも日本礼賛でもない。一国民として国際社会の中での日本国の立ち振る舞いが何とも情け無いのだ。グローバル化された国際社会の中で、常識的な経済貢献や軍事的補完関係を超えて日本という国が、世界から尊敬をされ重要な役割を果たすためには、伝統的に祖先から受け継いできたこの独自のノウハウ、「神技」をつくりだしたそのエッセンスを摂りだし、一般化、標準化して、世界で共有できればおもしろいと思う。
2017年
9月
24日
日
グラデーションの大地 日本
2017年
9月
22日
金
困った時のカミ頼み
気が付いたことがある。その日は、庭に出て降りしきる雨を眺めて過ごした。あまだれの動きをじっと見ていると、水はモノであるとともに、記号的でもあり、重たい空気でもあるような気分にとらわれた。その光景そのものが、こころを満たすクオリアであり、視覚や聴覚などの五感だけでは表せない時空であった。その光景の全情報は身体を満たし無意識に取り込まれるのだ。無意識は、この錯綜した情報すべてを取り込み、しかるべき処理を加え保存しているのだろうか。つまりボーとしていることはすごいことかもしれない。
曖昧でとりとめのない世の中の動きやこころの現象は、光は粒子であると共に波であり、モノの位置は特定不可能など、曖昧さを核心としたミクロ世界の量子論と似ていると思えた。一般的には、現象には原因と結果があり、分析により本質を究明、法則の発見に至る。これにより世界を合理的に捉える。というのは常識的見解である。しかも、この見解は、意識中心主義的なものである。もっと無意識領域から世界をとらえるべきではないだろうか。本当のところは、もっと曖昧でアバウトなものかもしれない。脳内の無意識領域で営まれているニューロン・ネットワークは、数字や言語のような記号的な構成ではなく、2進法的なコンピュータ処理とは異なり、その処理の形態は分子レベルでアナログ的であり曖昧を本質としていると思われる。啓示と呼ばれたり直感と呼ばれるような認識は、無意識領域で、先ほどのクオリア体験などの多様で微細な情報が絡み合って答えを導き出し、それを都合良く記号化して意識に受け渡しているのではないだろうか。
仮にそうだとすると、本論の仮説は、カミとは森羅万象からやってきた無意識内に宿る特異情報であった。特に森と海を中心とした多神教文化で育ったこの列島のヒトにとってカミとは、例えば脳内の無意識をOSとすると、「困った時のカミ頼み」のための脳内アプリであるのかもしれない。さまざまなキャラクターをもった脳内アプリ「カミたち」が、ヒトの人生と関わって協働する。カミとは、タマであり精霊である。精霊は情報であり、情報はエネルギーであり、宇宙であった。さらに心を持って生きているヒトもタマである。したがってヒトは物質としての身体を持った情報なのかもしれない。
2017年
9月
21日
木
あちらとこちら2 マレビトたち
日本には不思議な祭りがある。ある日突然、あちらの世界からとんでもない怪物がやってくるのである。民俗学者折口信夫はこの怪物たちを「マレビト」と呼んだ。里の人にとってはおどろおどろしい魔物であるが、実は里に福をもたらすカミであった。現代の常識では、カミは、立派な人格を持った全知全能の存在で、それ故、お祈りすれば願いを叶えてくれる存在であると思われているが、歴史的にはそうではない。その大部分は、わがままで凶暴、楯突けば祟る存在なのだ。実際、祭りに登場するマレビトたちも、ヒトを襲うことがある。襲われたヒトは、意外にも幸や福をいただくことになる。マレビトとは、あちらの力である。ヒトはそれ以外にもあちらの力をいただいて生きている。前回の1で述べたように、植物たちは、地上をこちらとすれば地下の養分、あちらの力ををいただいて生育し、実や花を地上のこちらに届け、鉱物や石油は地下、あちらの力そのものである。ヒトは、言葉や絵を通して過去の世界、いわば、あちらから先祖の知恵や歴史を学んでいる。ヒトは、あちら側の時空から食料などの幸や、石油などのエネルギーを得て生きているのだ。マレビトとは、あちらのエネルギーの象徴そのものであった。
仮面の来訪神が登場する祭 | |
能登半島 | アヘノコト |
秋田 | ナマハゲ |
岩手 | スネカ |
石川 | アマメハギ |
山形 | アマハゲ |
長野南部新野 | 新野雪まつり |
奄美大島 | テルコナルコ |
鹿児島県甑島など | トシドン(歳神) |
八重山 | アンガマ・ミルク・フサマラー・マヤの神・トモマヤ |
宮古島 | パーントゥ |
西表島 | アカマタ・クロマタ・シロマタ |
沖縄本島北部 | 海神祭(ウンガミ)・アガリの大主・ガナシ |
石垣島河平(かびら) | マユンガナシ |
2017年
9月
10日
日
あちらとこちら1
昼と夜、地上と地下、祭りと日常生活、山と里、陸と海、地上と空、日常空間と廃墟、ヒトはそれらを体験する時、こちらからあちらを思い浮かべる。鉱物は地下から掘り出され地上でヒトの資源となる。植物は地下から養分を吸い上げて成長し、花や実となって地上の生き物を潤す。魚たちは水の外に引き上げられて海の幸となる。祭りは、あちらからやってきたカミが神輿に乗せられて里の家々を祝福してまわる。ヒトは山・海・空の彼方にあちらの世界を感じる。夜を照らすほの暗い照明の向こうの闇に、あちらの世界をを感じる。カミ、タマシイ、モノノケ、オニ、幽霊、怪物などはあちらの住人である。ヒトが感じるカミとはすべてあちらの世界のものたちの総称である。日本では、芸能者や職人の優れた人たちはあちらのパワーをこちらに導き入れるすべを知ったヒトたちであった。しかも彼らの技芸は、あちらをこちらに引き入れるために精緻を極めたものとなった。それらを見たり体験したりする人たちは、一見、シンプルでフラットな表現物の背後に、必ずあちらからのメッセージを受け取ることとなる。光と闇、黄昏のほのかな陰影の中であちらへの入口を見つけて、あちらからこちらを見ることができた時、まったく新しい世界が広がっているのかもしれない。
2017年
8月
07日
月
カミとは森羅万象が発する見えないアプリだった
2017年
8月
05日
土
真っ暗闇
2017年
8月
01日
火
ミラーレスカメラとインターネットとクールジャパン
このWEBサイトの風景写真は、ミラーレスカメラによって撮影されている。長年、愛用したアナログの一眼レフカメラに慣れた眼には、このミラーレスが大変斬新であった。筆者はこのファインダーを覗いた途端、直感的に納得、すぐに購入したのだった。写真を撮ることはリアルを追い求めることと決めていた筆者には、フィルムの銀粒子の濁った曖昧なトーンにリアルを感じていたのだが、ミラーレスの巧妙に設えられたファインダー画像にもリアルを感じたのだ。カメラ製作者の意図は、撮影された写真そのものがファインダーで見えることだ。だが、それは同時に肉眼で見たままであると思っている風景が、実は脳が巧妙に加工した風景であったことを気付かせてくれたのだった。リアルだと思っていた私の理解の仕組みそのものを、ミラーレスのファインダーが表現していたからである。そこには、一眼レフのペンタプリズムによって外界がダイレクトに投影される仕組みはもうないのだ。ミラーレスのファインダー画像は、カメラに組み込まれたソフトウエアにより自在に演出されている。実は、人間の視覚と同じ構造なのだ。人間の視覚も脳内の無意識領域で再加工された画像を意識がリアルなものとして見ていたのだ。それならば、アナログの一眼レフよりミラーレスの方がすぐれているのではないか。それが購入理由であった。現代は目を最優先にした文明である。スマートフォンの爆発的な普及により何十億人ものカメラマンが日常を撮影している時代となり爆発的な数の画像が、表象となって地球を覆っている。
インターネットがあらわれてすでに四半世紀が経過した。当初よりその仕組みそのものが現代的であった。テレビ、新聞などのように中央集権的ではなく、個別分散的な竹藪(リゾーム)構造なのだ。さらにSNSに見られるように双方向である。パソコンと電話付きパソコン(スマートフォン)の普及と相まって随分、ヒトのコミュニケーションの質が変化している。とりわけインターネットの特徴は、すでに大きな物語が消えていることである。古典的な世界では、大きな物語は社会から供給されていた。ヒトはそれをテコにして社会や人間を理解した。しかし、インターネットは、大きなデータベースである。ヒトは検索しながら各自が小さな物語を紡いでいく世界になったのだ。
さらに東アジアの辺境の地、日本からアニメ、漫画、ゲームなどの創作活動や、寿司、天ぷらなど和食文化が海外に広がっている。セーラームーンで育ったフランスの少女たちが来日する時代となった。50年前の日本では考えられないことだ。当時は、欧米文化に憧れ、日本は欧米のコピー商品だらけだった。偽物、安物と言われ、憧れを裏返せば田舎者の劣等感でもあったのだ。しかし偽物と揶揄されたものたちは、独自進化を遂げて、日本の田舎者文化は、本物、オリジナルを凌駕するまでになった。
ミラーレスカメラ、インターネット、クールジャパン。一見繋がりのなさそうなものたちは、その根元で繋がっている。どれも1990年代が関係している。何が起こったのだろう!
2017年
7月
30日
日
おてんとさま
2016年
9月
30日
金
日本の八百万の神々一覧
2016年
9月
07日
水
ポケモンGOと出雲大社
2016年
9月
02日
金
カミと神。八百万のカミとは
日本のカミは、人間社会の創造神である。社会の外側から社会に影響を与える存在である。これに対してキリスト教の神は宇宙の創造神である。宇宙の外から全てをコントロールする神である。
独自の多神教世界である日本の八百万(やおよろず)のカミは、風や水や岩、樹木などの自然の精霊のたちから始まり、神話や実在のヒト、英雄たちであり、人間の社会に深く影響を及ぼした存在である。人々はそのパワーや祟りを恐れながらも祀ることによりカミの加護と現世利益を得ようとする。そんなカミは、祭の度に、彼岸からやってきて此岸である人里にサチやエネルギーを授けるマレビトでもあった。
八百万の神々は、キリスト教やイスラム教の神とは根本的に異なっている。日本の神社をみると、平安神宮は桓武天皇、明治神宮は明治天皇と実在の天皇であり、北野天満宮は菅原道真、東京の乃木神社は明治に日露戦争で活躍した乃木大将が祀られている。もちろん豊臣秀吉や徳川家康もカミになっている。いわば凄いヤツが祀られている。彼らは大抵、新しい社会を作ったり、社会に大きな影響を与えた英雄たちである。それ故、日本のカミには、独自の物語があり、縁結びであったり、学問成就であったり、病気治癒であったり、そのキャラクターごとに人々は参詣先を選んでいる。おそらく日本のカミは、縄文期のアニミステックな地域や部族に根ざした自然神が、大和朝廷成立後に古事記・日本書紀などの神話成立時に再編成されたものが八百万の神々であったと考えられる。
それに対して、一神教の神、例えばキリスト教やイスラム教の原典とされるユダヤ教の旧約聖書では、自然や地域に散在する多様な神々は退けられ唯一絶対の神、Godが登場する。この神は、多神教の神々より抽象度の高いメタレベルの神であったのだ。それゆえに社会を超えた宇宙の創造神であり、かつGod自身が創造した「人間」が担うべき掟を人間に命ずる存在でもあるのだ。
この違いが基底文化の違いとして現代の文化・社会・個人にまで深く影響を及ばしている。
2016年
2月
06日
土
お祓いと支払(オハライとシハライ)
日本語には、シハライとオハライという何か紛らわしい怪しい言葉がある。
オハライは、取り憑いたモノノケや汚れを神社のカミにお願いして取り除いてもらう行為である。
一方、シハライは、日常、必要となった欲求を満たすためにモノを買って、商品というモノを相手から自分に付ける(憑ける)ことだ。相手のモノが自分に移動するから、それと同等のモノ(お金)を払う(ハラウ)のである。つまりモノの価値として「サチ」(幸=モノ=タマ)を身に取り込み、それ相当のモノ(お金=タマ)のやりとりが、モノの取引の本質である。お金には、「サチ」に見合った同等の価値(モノ=タマ)が宿っているのである。 いわばカミ(タマ=モノ=カミ)の交換と言ってもいいのだ。
古代においては森羅万象の奥底に流動する「タマ」(精霊=自然エネルギー体)が豊かな自然をはぐくみ、そこから人は食物や生きる力をもらって生きていた。「タマ」は、人間の社会ではコトダマとして言葉と事に影響をあたえ 、この世の富や幸や生命を増殖させるエネルギー体であった。その見えない「タマ」が、社会の背後で流動する姿は、現代社会における市場システムの中でうごめく「貨幣 」に驚くほど似てはいないだろうか。
本稿の趣旨から言えば、貨幣はタマ(モノ=精霊)である。現代社会の入り組んだ記号や情報の森の中で、貨幣はその森に生息するタマ(精霊)のように活動している。従ってシハライとオハライは同じことなのだ。タマ(貨幣)は、市場システムの中を憑いたり離れたりして流動していきながら 、いたるところで物質的な変態をおこしていく。時には流動するタマ(貨幣)はモノノケとなって人々を襲うこともあるのだ。その流動のプロセスがよどみなく活発に活動する時 、現代人は、景気がよいと思い、生活の豊かさを実感しているのだ。
2015年
12月
01日
火
ゲゲゲの鬼太郎
水木しげるが亡くなった。彼の生み出した「ゲゲゲの鬼太郎」は今では世界中のファンに愛されている。日本のマンガやアニメの世界が表現しているその多くは「この世にないもの」である。
それらの特徴の一つはあちらの「もののけ」と,こちらの日常世界が渾然一体なのである。日常心理のなかにあちらが溶け込んでいるのだ。もちろん世界中に妖精物語は多くある。ハリーポッターやシンデレラはその例である。世界中の神話や民話を比較すると共通点が見出せる。それを神話素という。人を感動させる仕組みだ。これによって物語は世界に拡がっている。しかし、日本ならではの魅力の素もあるのだ。メードインジャパンのキャラクターを並べて比較するといわば「日本の素」が見つかるかもしれない。
あちらの世界で跋扈する「鬼太郎」のような「妖怪」や「もののけ」たち。また、まだ見ぬ未来世界。ドラえもんから新世紀エバンゲリオン、ガンダム、AKIRAまでのSFの世界。実際、世界中の子供たちがファンなのである。なぜ日本のマンガやアニメは世界にファンを持つのか?これも日本の不思議の一つだ。
メイドインジャパンの代表であるクルマは、ヨーロッパ発祥の自動車とアメリカ発祥のオートメーションを採り入れ、世界で有数の自動車生産大国になった。多分、そのこととマンガ・アニメの世界化は、基層で繋がっているはずだ。マンガ・アニメもディズニーやポパイなどアメリカの作品群、ヨーロッパのアニメ文化から多大な影響を受けている。しかし日本製はそれらとどこかが違うのだ。多分、このWonder
JAPANの「日本の秘密」が指し示している日本独自の多神教文化とカミの作用が関係しているに違いない。
鬼太郎とトヨタプリウス、大勝軒のラーメンを比べて「日本の素」を見つけてみよう。
2015年
10月
16日
金
空気の話 無意識に支配される日本人
2015年
10月
01日
木
現代に生きる縄文1万年。 原日本文化とは
浅草で外国人に人気の旅館がある。こちらでは宿泊1日目の夕食には必ず鍋料理を出すそうである。「日本を理解していただくには鍋料理が一番です」旅館の主人は語った。箸と箸で突き合う鍋料理は、コミュニケーションを促進し、相手への気遣いが生まれるそうである。それはともかく鍋料理のルーツは縄文時代である。縄文の人々は部族単位に、統一国家も作らず1万年もの間、森羅万象からの幸(サチ)を分け合い、土地のカミを祀り、鍋を囲んで生活していたのだろうか。その後、時代の変化が訪れる。縄文から弥生への移行である。弥生期から始まる大きなイノベーションは、鉄器の流入、稲作の普及と東進、統一国家大和朝廷の成立、仏教の渡来、漢字の導入などである。1万年の縄文文化を背景に彼らはなんなくそれらを受け入れていくのである。
森羅万象には様々なカミ(モノ)がいる。拝む対象もいろいろある。多様な選択肢のなかでのさまざまなものを採り入れる。しかし自分たちに本来、身についた大本の文化は変えない。人々は、生活に恩恵をもたらすカミはもてなして祀り、大きな祟りを与えるカミは、これを畏れて祀る。小さな神々もその都度に祀る。多様なコードを採り入れ、自分のモードにしてこれを使う。それが縄文アニミズム文化であったのではないか。
キリスト教が日本の伝わった時、当時の信者たちはマリア菩薩を作って、これを拝んだ。キリスト教と仏教を混ぜたのだ。一神教であるキリスト教にとっては、これはあってはならないこと。宣教師たちは大いに困ったそうである。人間は猿から進化したというダーウインの進化論が明治になって入ってきた時も、日本人はすんなりと受け入れたそうだ。欧米では現代でも抵抗する人たちもいるらしい。
クリスマスはサンタクロースでキリスト教、大晦日は除夜の鐘で仏教、正月は初詣で神道。いまだに日本は変わっていない。いま世界中に拡がっている日本のアニメ文化もこれに乗っかっている。みなさん、どう思います?
2015年
9月
25日
金
タタラ 古代のスーパーテクノロジー
2015年
9月
04日
金
富士山 こころのランドマーク
富士山が世界文化遺産に登録された。富士は日本人にとってカミの山である。決して人が登山して征服する山ではない。富士のカミは、日本神話で高千穂峰に天孫降臨したカミ、ニニギノミコトが娶った女神コノハナサクヤヒメである。多くの日本の霊山のカミは女神である。江戸時代に富士への信仰、富士講が盛んになり多くの人々が富士山頂を目指した。
静岡への旅の途中で、私は就職が迫っている少年と出会った。彼は爽やかな口調で「僕は一生、富士が見える場所で過ごします」といった。富士は山以上の何かなのだ。
おそらく富士山は稜威(イツ)そのものではないか。此岸から彼岸に詣る。彼岸から戻ってくることで元気になり蘇る(黄泉帰る) のだ。日本の景観の典型として富士をのぞむ風景がある。銭湯の絵が有名である。東京の街には今も、富士見台とか富士見坂などという地名も多い。人々は誰しもある憧れと親しみを持って富士を眺めるのだ。そのことは人々の日常世界の景観の中に、それを超えた彼方の世界を象徴する富士の姿が、富士の姿の向こう側の彼方の世界を指し示すアイコンとなっているのかもしれない。
2015年
8月
28日
金
京都の神社、寺院の数を知っていますか?
日本文化を象徴する都市は、やはり京都だ。京都の特徴と言えば神社、寺院の数の多さであろう。一体どれくらいあるのだろう。調べてみると正式に登録されているもので京都市内の神社がおよそ800、寺院がおよそ1700もあるそうだ。ずいぶんと多い。しかし日本全国の神社、寺院の数をみると、驚くことにおよそ神社は8万8000、寺院は7万7000にのぼるのである。また意外にも神社の多い県は新潟県がトップでおよそ5000、寺院のトップは愛知県が5000なのだ。とんでもない数である。ちなみに全国のコンビニの総数がおよそ5万5000、郵便局が2万4000である。日本全体で神社と寺院の数をあわせると16万ヶ所という規模は、通常、一般の日本人の自宅から徒歩5分以内に1〜2件ある計算になるそうだ。地蔵などを祀ってある祠や、道祖神、道端の稲荷などを含めるとすごい数が考えられる。子供時代に神社や寺院の境内で遊んだことのある日本人は多い。神社や寺院は、現世(此岸)で生きる人々にとって彼岸への入口であり通路である。これが現代でも現実に脈々と生き続けている。やはり多くの日本人はカミ・ホトケと無自覚ながら確実につながっている。
2015年
8月
13日
木
天皇 祟る王
天皇制は最も素晴らしい日本の発明だ。現代まで1700年間継続した王制は世界に類例をみない。天皇霊を継承している人が天皇である。したがって天皇の身体は天皇霊の乗り物である。天皇霊は森羅万象の神々と繋がっている霊的な大自然の象徴である。したがって人々にとって天皇に刃向うことは大自然を敵に回すことになる。大きな祟りが人々を襲うことになるのだ。人々は1700年の間、畏れ多い存在として天皇を祀ってきたのだ。天皇は人々から拝礼されるたびに人々のタマを付けて霊威を増していく。つまり天皇を拝礼する意味は、あなたの僕(しもべ)になりますということである。タマを天皇に差し出すのだ。これを「寿言(よごと)」という。これと共に天皇は、人々へ自らのタマを分け与えていく。サチの分配である。春と秋の園遊会の時、また震災地の訪問の時、天皇の役割が見える。政治的実権を持たないゆえに現在も綿々と存続している。
2015年
8月
12日
水
なぜスティーブ・ジョブズはヒット製品を出せたか?
アップルの創始者スティーブ・ジョブズ。末期ガンの宣告を受けていた彼はスタンフォード大学のスピーチで卒業生たちに投げかけた言葉は、
『私は死ぬのだ。この現実こそ、自分を《もしかしたら、何かを損するかもしれない》という幻から覚ましてくれる。私たちは最初から裸ではなかったのか。自分の心に忠実に生きない理由は一つもない』
「Stay hungry. Stay foolish!」
ジョブズの魂と禅の精神がよく似ているのは、けっして偶然ではない。ジョブズは乙川弘文(おとがわ こうぶん)老師という、アメリカで布教していた日本の禅僧に師事していた。欧米のフロントランナーが禅に傾倒しているということは、けっして珍しいことではない。ジョブスは禅を通して日本のエッセンスを捉えていた。禅の庭のような無駄を排した超シンプルなデザイン。陶器のような道具として洗練された暖かいカーブを持ったプロダクト。彼はよく家族とともに京都へ来ていたそうである。骨董を見る目は一流であった。おそらく彼は、前述した名人の域に達していたに相違ない。まだこの世にない新製品のリアルな姿が見えていたのだ。彼にとってIT業界の有象無象のマーケティング商品は、色=現象=雑念でしかなく、それらを滅した空の世界にiPhoneが点滅していたのかもしれない。
2015年
8月
12日
水
悟りとは? 現代の認知科学の視点から
ものごとの理解とは、世界の姿を五感で受け止め、脳が情報処理した結果のことををいう。すべてが情報なのだ。一般的には、見たものは事実、考えたことは観念というように二元論として扱われてきた。認知科学では、それら感覚情報と思考情報を情報の抽象度の相違として一元論として扱う。これにより身体と心と言語、物理世界と心理世界、さらには唯物論と観念論が共通の情報空間として克服されたということになる。
人は見たいものしか見ていない。脳は過去の記憶などを適度にハイブリッド化して省エネモードで視覚情報を処理している。見たつもりでも実は何も見ていないことがたびたび起こるのだ。つまり視覚には死角がある。物理的にも網膜は、神経の束の集まる部分は外界の像を映していない。しかし脳はこの欠落している点を あたかも見えているように補正処理している。この盲点をスコトーマという。この曖昧さは五感すべてで起こる。人の認識は穴だらけの情報空間なのである。
「さとり」とは、このスコトーマが外れた状態をいうのだ。驚くことに仏教は、2000年以上も前から人の認識そのものが情報空間であるとし、この死角だらけの情報空間自体を虚妄であるとしていた。色即是空である。インド発、中国経由で日本化した仏教は死後の世界を説くことで、日本のカミの世界とクロスしていったが、彼岸の世界を遠くに置き、あまりに拡大させ実体化したことが失敗であったようだ。日本人の無意識の中では、此岸と彼岸は渾然一体化しているにちがいない。
2015年
7月
29日
水
田舎の宇宙 里山と鎮守の森
高齢化と過疎化が進んでいる田舎では、都会の若い人に向けて田舎暮らしを奨励しているそうだ。しかし自然豊かでのんびりした生活に憧れた都会の若者たちが移住しても、その5人に1人はまた都会に舞い戻るそうである。いかにも自然がいっぱいの里山の景観は、実は人の手の入った人工の景観なのである。つまり村人たちが先祖代々共同で手入れした生活空間が里山と言えるのだ。稲作のための棚田は一年中、手入れが欠かせない。氏神を祀る鎮守の森は、村人共有の大切な場所である。村人は村の中での役を担っている。祭の準備、稲刈りなど農作業の手伝い、屋根の吹葺き替えや水路の補修などの共同作業。それは、子どもの頃から鎮守の森などで一緒に遊び、育ってきた仲間意識を前提としている。長老から子どもまで、村全体が家族なのである。田や畑が生産の場であるなら、鎮守の森の神社は祈りの場、山や川、道路や水路、集会場、店や駅までが村の宇宙の一部なのである。したがって隣村との境には今でも赤いエプロンが掛けられた地蔵や馬頭観音、道祖神などが祀られている。これに馴染めないない若者たちは、移住して来ても街へ帰えるしかないのである。伝統的な村社会は、日常の隅々まで人の手が入った濃密な一個の宇宙であった。だからこそ河童や座敷童などの数々の物語も生まれていた。しかし現代では、その村々は過疎化でかつての手の込んだ濃密な宇宙が維持できなくなっている。
2015年
7月
29日
水
家制度と墓
戦後の都市化、核家族化、地方の過疎化などで、すっかり日本の家制度は形骸化してしまったようだ。現代は個人が家よりも重視され、老後のこと、死後のことは家族、親族の間でも先送りされてきた。現在、日本は高齢化社会に突入して、もう逃げることのできない状況に立ち至っている。民俗学の柳田國男は、墓について遺体を埋葬する墓とタマ(霊)を拝礼する墓に分けて考えている。タマを重視するからだ。沖縄では、昔、風葬が主流であり埋葬の習慣はなかったそうだ。江戸時代の庶民は個人墓は稀だった。などなど実は、人の死後の取り扱いは、時代と場所で様々であったのだ。したがって、いまの常識、人が亡くなると菩提寺に戒名、葬式、法事を依頼し先祖伝来の個人墓にお骨を収めることにこだわることはないのだ。現代のほとんどの人が自分の曾祖父さん曽祖母さんより前の世代を知らない。会ったことがないから当然であるが、現代人は知らないことは自分に関係がないと思いがちだ。
一度、面々とつながる先祖のタマの流れをイメージしてみよう。
カミを祀る神社は、初詣や結婚式など、はじめを祝う宗教となり、除夜の鐘や葬式など終末を弔うのは寺院が取り持つことになってしまった。もともと江戸時代までは、神宮寺といって神社と寺院が同居して神官がお経を読んでいた時代もあったのだ。
現代では、自分の遺骨は海など自然の世界へ戻して欲しいという人々が増えているようだ。人は死んでタマにもどることからすれば、亡骸や遺骨を大自然に戻して行くことのほうが理にかなっているのではないか。沖縄のように死んだ人のタマは彼岸、ニライカナイに赴き、またある日、此岸に戻って孫やひ孫をサポートする。そんな考え方の方が、閻魔大王の裁きを受けて地獄に堕ちる物語よりも楽しいではないか。
2015年
7月
29日
水
日本の頑固親父が消えた
仮に、「生きると言うことは自らのエネルギーを存分に燃焼させること」であるとすると、最近の親父たちはどうも元気がない。戦前、日本中を歩き回った民俗学者宮本常一は、昔の普通の日本人は、学校教育も十分に受けていないし、村から出ることもなく情報も持っていなかった。したがって何かを決める必要が生じた時には、合理的、理性的判断ではなく、勘と経験でものを言った。結論が明らかに間違っていることも平然と決めていたらしい。この「決める」役割が家族内での親父の役割であったのだ。その決定に対して当然、反抗する者もいた。そこで争いや確執も生じた。つまり負のエネルギーが高まったのだ。このエネルギーをバネにして息子たちは親父を超えていったのではないだろうか。娘たちは恋を成就したのではないだろうか。現代の親父も、自らの優柔不断を脱し、「決定」できる頑固親父として蘇るべきなのだ。
2015年
7月
29日
水
家族の中でのおもてなし
現代の日本の女性が男性を選ぶとき「やさしいひと」がベストワンらしい。海外では「勇気のあるひと」が「やさしいひと」よりも人気だそうだ。家族は通常、男性と女性で構成される。どの家にもそれぞれの家の事情がありその家ごとの世界を形作っている。家庭は、男性のこころと、女性のこころが混じり合って形成されている。男性のこころは、「勇気=恐れ=強い〜おおらか」がキーワードで、女性のこころは「やさしい=許し=守り〜優雅」がキーワードかもしれない。これは、カミの二つの性質である。
昔の家には、仏壇があり、神棚もあった。その上、台所のかまどの上、便所などにもカミが祀られていた。いわば家庭の中は神々の宇宙でもあったのだ。一年を通してカミを祀る日も決められていて家庭内で小さな祭が執り行われていたのだ。
沖縄でカミに供える水を汲みに来ている女性と会ったことがある。家庭の神々を祀るのは女の役目と言っていた。沖縄は今だにカミが近い世界だ。日常生活でカミをもてなす習慣は、子どもたちにも受け継がれ、人をもてなすこころも同時に育つ筈だ。
2015年
7月
29日
水
訪問販売と御用聞き
現代ビジネスの世界での通念は、データやシステムが優先しているようだ。したがって一般の会社員も、言葉の上では個性重視としながら実際は個性を失って久しい。みんな同じような顔付になってきている。会社の名前で仕事をして、個人名は極力抑え気味である。しかしそれでいいのだろうか。ちょっと気の利いた企業は、企業ブランディングを行い、法人としての社会イメージを形作っている。社会的知名度や信用を確立している。そのためか社員は、自分の顔を隠し、会社の顔を前に出すことがいつしか常識となっている感がある。しかし立ち止まってちょっと考えてみよう。本当のビジネスは、もっとドロ臭いものではないだろうか。商売の神様、松下幸之助神話に「毎日、営業先の店先を掃除する営業マン」の話がある。この営業マン氏は、結局、営業先の社長に顔を覚えてもらい受注に成功したのである。結局は、人と人との繋がりが人の世界である。家庭も学校も、そして仕事もそうではないだろうか。ヤクルトおばさんは、全国津々浦々でいまだに活躍している。御用聞きは間もなく盛り返すに違いない。