彼岸と此岸の分離 国家の発生で失ったもの

天安河原 高千穂 宮崎
天安河原 高千穂 宮崎

現代人は誰もが国に属している。国には元首がおり、国家は国民を支配している。国民は一定の権利と義務を持ち国家に帰属している。現代人は誕生から終末まで国家に支配されているのだ。これが人々にとって当たり前の世界、常識の世界となっている。

 

人は一定の年齢になると教育を受ける。教育では社会に有用な知識が優先的に教えられる。大部分の国民は、教えられたことに疑問を持たず一定の世界観、常識世界を共有し大人へ成長して行く。しかし人々が自由や真理、芸術を目指す時、少し様子が変わってくる。常識世界を超えて行くことが求められるのだ。赤いリンゴは常識的には赤いリンゴという言葉(記号)で表される実体だ。しかし人はリンゴの赤の世界に入って行くことも可能なのだ。この赤の世界を追求して自分の世界を築く人がいてもかまわない。まあ、リンゴが認知できないようでは日常生活も心許ないかもしれない。現代人は、リンゴを認知し、ミカンと区別することで日常を過ごしている。記号を組み合わせたり、分けたり、付け加えたりして左脳的な安定した世界観を形成している。常識の形成である。

 

古い時代では、リンゴはいまの単なる食べ物としてのリンゴではなく、赤の世界の中にリンゴのタマ(魂)が宿っているリンゴであったのだ。同様に生と死が現代のように分離してなく、過去と未来、人と動物の関係性も分離していなかったようだ。従っていまを生きている家族も霊を通して先祖と繋がっていたし、猟師と熊も繋がっていたのだ。この彼岸と此岸が渾然一体となった現代では見えなくなっているダイナミックな空間を、古代人は生きていたのだ。分かりやすくいうと、仏壇は家族にとって、あちらへ行った先祖の霊の出入口である。神棚は、カミの世界への出入口である。この出入口を通してあちらの霊(タマ)が実際に出入りしていたら、と考えてみるとリアルに古代人の世界が見えてくる。

 

いわば古い時代の人々は此岸と彼岸を同時に生きていると言ってもいいかもしれない。同時に豊かであり恐ろしい森羅万象とも共に生きていた。このことは人々にとって日常生活は自由であるとともに大変な脅威とともに生きることであったのだ。大自然の脅威、外敵からの防御などにいわば身の安全を求めた事が、王を抱く国家の成立に繋がっていく。大自然の中にあって見えないタマ=カミとしての存在する人智を超えた森羅万象の王が、タマと象徴的に繋がるとはいえ生身の人間が王となった時、国家が成立したのだ。


日本的な王権である大王(天皇)とは、豊穣と恐ろしい祟りをもたらす自然の王を人間化した存在として成立したのだ。これにより人々の世界に重大な変化がもたらされた。生と死が分離され、森羅万象の轟も消えたのだ。これにより人々は以前の自由を失うかわりに、森羅万象に漂う恐怖から一定の解放が可能となったのである。国家成立後の社会は、生と死が交わる時をもてるのは、祭の時空と、シャーマンや芸能の時空に限られることになったのだ。


カミのランドマーク 高千穂夜神楽 宮崎