意識・無意識 天皇・カミ

現代人の多くがいつの間にか思い込んでいることは何だろうか。


それは「無意識の世界」ではないだろうか。いまや意識は無意識が作り出したアプリであり、こころとは無意識のことであり、無意識が決定した情報を加工して表示するに領域が意識と呼ばれるまでになった。無意識とは、日常の意識の背景に拡がる薄暗く広大で果てしのない海のような領域である。フロイトとユングは、意識の背景に無意識を発見した。ただし無意識は科学的には未だ実証されてはいない。しかし無意識は、誰しも自らのこころを振り返ってみると自明と言ってもいい概念だ。仏教の唯識論には、末那識(まなしき)、阿頼耶識い(アラヤシキ)という深層心理が紹介されている。禅宗でも不立文字として言葉を超えた直感が重視される。さらにゲシタルト心理学における総体的理解のメカニズムなどにも、ヒトの直感的認知作用が扱われている。どれも機能的な分析を伴わない一体的な認識を表している。

さらに人工知能研究には認知科学や脳科学の成果が生かされているが、人工知能の父と言われるマービン・ミンスキーが課題としてあげたフレーム問題は、いまだ解決されていない。現在時点で人工知能にはデープラーニングによる学習機能が設定できるところまできたが、物理次元のみ扱う科学技術は未だ限界がある。コンピュータと機械は、美しいものにまだ感動しないのだ。クオリアはないのだ。意識は、無意識という広大な海に浮かんでいる小さな島に過ぎない。意識は壮大な海であるこころの一部、無意識の一部なのである。ヒトは、知識量の大小、経験値の大小に関わらず、生きものとして生き延びる感覚を持っている。動物たちも同様である。いざとなると生き物は、意識と無意識を合わせた総合的判断を行い自らを守る。それは生きる知恵である。

これは現代人でも古代人でも変わらない。現代人は古代人よりも進化していると思いがちだが、実は古代人の方が知覚能力や身体能力が高い。さらに彼らが滝の前に立つ時、滝は縦横高さを持つ3次元立体と見えるばかりでなく、彼の内部の無意識が投影する情報空間上に存在するカミやタマも同時に見ているのである。カメラにフィルターを付けて撮影するようにフィルターが新たな意味を付け加え、認識上の1次元を加えて見ているのだ。このもう一つの次元を仮に、現代的には「情報」の意を加えて「幻想次元」と呼びたい。つまり古代人は、三次元の物理空間と時間に幻想次元を加えて五次元世界に生きていたのだ。

しかしヒトはいつの間にか、幻想次元を切り離して生きることになったのだ。
現代人は、潜在意識の投影かもしれない思い込みや幻想を排除して、縦横高さの物理次元をよりクリアに見ることを好む。意識中心に思考して言語によるプログラムされた機能的知識を優先している。さらに現代では、情報言語が爆発的に増殖しているのだ。ヒトは言語を持っている。言語は、意識領域を強力にした。理性、論理性の獲得、経験知の蓄積などヒトの文明に大きく寄与している。それと共に言語化されない薄暗く広大な無意識の海のことはほとんど無視されている。この無意識の海は、混沌とした幻想の海である。脳に微細でしかも膨大な情報が蓄積されているのだ。その膨大な情報のほんの一部が意識として現れる。いわば意識は、物理次元への窓である。その窓から世界に接し、自らの無意識(潜在意識)にアクセスしながら世界を理解しているのだ。ユングは、無意識には、個の誕生からの記憶の総体(潜在意識)だけではなく、地球に生命体として誕生した時からの類としての記憶情報として集合的無意識が備わっていると言っている。このようにしてヒトの幻想次元は、意識、無意識、幻想、言語、情報で成立している。広い意味では、幻想次元とは情報集積体であるのだ。
古代人が自然と接した時、森羅万象にカミを感じた。現代ではそれをアニミズムといい、原始人たちの下等な心情としている。山にも、岩にも、樹木にも、動物にもカミを感じたのだ。これは世界の窓である意識が外界を捉える時、自らの無意識を動員して、実はもう一次元上の世界を見ていたのだ。古代人にとって、意識と無意識は、現代人よりもずっと区別なく、相互に入り組んでいたと思われる。これは外界という物理次元と無意識という幻想次元が、ハイブリッドであったということだ。自然という物理次元と、こころの幻想次元が一つになった4次元世界が古代人の日常であった。

この神々が住まう幻想次元(無意識)は、人間の可能性を大きく引き出す栄養素を含んだ海であった。この海からは様々なカミが幸(サチ)を携えてやって来た。人々はカミたちを迎え、山海の珍味、歌舞音曲でもてなした。これが現代まで続く祭である。現代人も祭には、こころを揺さぶられるのだ。祭には奥深い祖先の記憶が宿っている。現代人も海や山に出掛けると、どこかほっとした安らぎを感じ、祭りの太鼓にどこか懐かしいこころの鼓動を感じている。これは森と脳がまだつながっている証である。もし祭り、正月などの催事に現代人がこころが揺さぶられなければ、とっくの昔にそれらは消滅しているはずである。敗戦後も象徴天皇は続いている。このちょっとした日本の日常の感覚に中に、いまも日本の基層のカミが生きているのだ。

さらに日本では名人と言われたり、リーダーとして尊敬される人は、この海から養分をいただく術を心得た人々であった。いわば神楽や能楽の演者が、面をつければカミになるように、無意識世界の奥からカミを宿らせて、名人芸を演じてみせるのである。この無意識と呼ばれる豊饒の海は、祖先の記憶のアーカイブでもあった。天国や浄土、死者たちのあの世も、物理次元ではなく、無意識と言うこのいわば幻想次元にある。死者たちのタマはここに戻り、いつか新たな身体を得て物理次元に復活するのだ。
この物理次元より抽象度が高く物質性を伴わないこの幻想次元は.もう現代人には見えない次元である。
それは、縦横の2次元で暮らすヒトが高さが分からないことと同様だ。しかし死者たちはあなたの頭の中のこの無意識の幻想次元に棲んでいるのだ。物理次元と幻想次元はメビウスの輪のようにつながって多元的な世界を作っている。森と脳がつながっているから人々はカミを見出し、カミが祀られるのである。しかし現代人にとっては、森(外界)と脳(内界)は、明確に分離しているように感じている。

では何故、森と脳が分離したのだろう。一つであった五次元世界が、何故、物質次元+時間と情報次元にわかれたのか。それはある日、古代人の世界に亀裂が入ったことから始まった。国家の成立である。紀元300年ごろ、この列島に成立した大和朝廷は、自然界の最も強力な天皇霊(カミ=タマ)を宿した王を要請した。それまで人々は、一人一人が森羅万象の一部として生活していた。そこから一対一で食物などサチを受け取り、また災害などの脅威も被ってきた。幻想次元的には、ヒトに宿ったタマが、森羅万象の多様なタマと対峙して生きていたのだ。したがって人々は自由であったが、同時に多様な外界のタマのパワーを脅威と感じていたのだ。人々は、その脅威に対抗できる、より強いパワーを有するタマ(霊力)を求めたのだ。天皇は、幻想次元の王として物理次元との間に立ち上がったのである。
 
天皇制は、以来1700年の間、存続する世界でも類例をみない王権となった。天皇制が強固であるのは、多くの人々がこころの奥底で、天皇の霊的パワーを認めているからである。国家成立以降、天皇は、外界であり此岸である物理次元と内部空間であり彼岸である幻想次元との間に立つ霊的な存在となったのだ。天皇は欧米のキリスト教などの一神教世界にない絶対性を維持している。一神教世界では、唯一神の神のみが絶対的存在であり、王といえども相対的存在にならざるを得ないのである。したがって、一神教世界の王たちは社会的な存在にならざるを得ない。それに比べて天皇は、多神教的なカミ、最強のタマが宿った絶対的な霊的存在である。ヒトにカミが宿ってヒトがカミになったのだ。
日本では、現代でもカミが宿ったヒトをカミと崇め神社が造営されている。伊勢神宮から明治神宮まで、北野天満宮から乃木神社まで、神話と歴史上の人物がカミとして祀られているのだ。古代 、無意識の世界と自在にアクセスできた人々は、この分断により、限られた時、夢の体験、祭りの時空、芸術・技芸の時空ぐらいにしかアクセスできなくなってしまった。以来、人々は海に浮かんだ小島の中だけで支配されながら生きることになった。

ヒトは映画を見ると、なぜ感動するのか?
ヒトは音楽を聴くとき単に音を聞いているのではない。
ヒトは絵画を見るとき単に色と形を見るのではない。
ヒトはリンゴを見ると、なぜ美味しそうだと感じのか?

これらの問いに正確に答えられるヒトはいない。本当の答えは、意識の外、いわば彼岸にあるからである。


通常、これらはヒトが言語、音声、色彩、形の背景に立ち現れる意味を感じ理解するからである。では背景にあるものとは何か?それは記憶の総体であり、得体の知れない何ものかである。常識的には意識は、色、形、音、感触、匂いなどを感知し、属性を理解して、美しい、美味しそう、などの情動を持つといわれている。さらに意識は、バックグラウンドにある記憶や経験や情動の根源である何ものかを参照し、モノやコトを理解し、映画や絵画や音楽に感動しているのだ。では、この直感的な実感とは何であろうか。 


とんでもない試論

上記は,ある意味でとんでもない試論である。現象と実感をつなぎ合わせるとこうなった。
音楽を聴く時、音の流れの中で人は音を介して情感のストーリーを感じるとともに、身体的にもバイブレーションを感じている。映画などのワンシーンの背景にも音楽が挿入され、観客の感情を盛り立てている。音楽は人を日常空間である物理次元から、彼岸の幻想次元に転移させるのだ。あちらに行っているのである。おそらく無意識の情報空間に入り込みそのソースを自在に取り込みながら、物理次元から入ってくる音を変換したり統合したりして微細なディテールを活性化しているのではないか。ここに音の美と感動が結晶するのだ。
オカルトは、物理次元で無理やり物理的な実証を試みようとするから胡散臭い。つまり真実は科学的に物理次元の中で実証されなければならない。という3次元的物理主義に立脚している。勿論、科学それ自体も3次元の物理次元のみの客観性を根拠としていて窮屈で限定的である。どちらも3次元的物理次元に限定されている。さらに現代人の知性は相当に支配者に洗脳され枠にはめられているのではないだろうか。
本論は一見、日本の古代の神々と、心理学上の無意識を強引に結びつけている。しかも無意識を物理的3次元世界に加上するメタレベルでのもう一つの次元として「幻想次元」を仮定している。この世は4次元世界とする。幻想次元の場所は、個々の人の脳の中、無意識であるが、メビウスの輪のように個人性を超えた生命体共通の情報空間(3次元的には地球と宇宙空間的な関係)が背景に拡がっている。カミや祖霊の居場所をその幻次元に設定している。常識的には相当に無理がある主張だ。天国や黄泉の国は無意識の中にあるとしているのだ。しかしこれを前提に考えてみると妙につじつまがあうのだ。
人間の世界は、人間の意識に立ち現れたものしか実現されない。意識の反映が、物理次元の中で文化や文明となる。ものづくりの世界でも、高度なものを目指せば目指すほど、経験を超えた直感的悟性が必要になる。直感の出処は無意識である。神意とも言う。すべて人間の作り出した現実世界は、元々無意識(幻想次元)からやってきたものだ。
これで大自然(物理的3次元)〜心象的個的自然(幻想次元を加えた4次元)カミ・モノノケ・こころ・無意識〜超幻想次元(個的幻想次元を超えた生命共同体的幻想次元)とメビウスの輪が完成する。大自然と超幻想次元は丁度、表裏の関係にある。心象的個的自然を媒介にして、表と裏が同一平面上で出会っているのだ。つまり客観的物理世界を語ることは、語る人の存在が投影している。客観的世界が成り立っているとは、語り手を伴わない点で観念論である。観測者の存在が実体としての世界につながっている。カメラが撮影した写真に写っているものとは、物理次元の外界と撮影者の幻想次元の内観である。それがリアルな世界だ。ということは、人間的世界は、物理次元と幻想次元のハイブリッドなのだ。こう考えていくとタマに満ちた古代が、現代につながることが可能になる。
実際、日本文化の基底を探ってみると必ずタマ(カミ=モノ=オニ)に出会う。日本的な多神教文化は、キリスト教などの一神教文化にないユニークな側面を持っている。日本の多神教文化では、タマの数だけ絶対がある。その絶対が棲み分けしているのだ。一神教文化では、そのようなものは決して絶対とは言わない。
東大阪市に石切神社がある。生駒山麓にあるその神社の参道はあたかも神々のデパートである。この地域は古代、異国文化の上陸地であった。仏教、儒教、道教、神仙思想、並びに神道、修験道など何もかも一緒くたである。コテコテの土俗のカミたちが並んでいる。現代の都会にあるお洒落なキャラクターショップに行くと意を凝らしたぬいぐるみやフィギュアがところ狭しと並んでいる。これは石切神社とまったく同じではないか。神々のデパートである。好きなこと、困ったことに出会うごとに人々は気に入ったカミを選んでいる。
現代美術の世界のカミの変遷は、フランスのマルセル・デュシャンの大ガラスや便器から始まり、アメリカのアンディ・ウォーホールのマリリンを経て、極東の村上隆のスーパフラットなフィギュアにまで続き、そのフィギュアは日本的な世界商品となってしまった。アニメから始まった聖地巡礼、パワースポット巡りは「縁」を求めてカミをめぐる旅である。現代の日本では軽々と神々が消費されていくのだ。
日本的な多神教世界では、絶対は人の数だけあることを意味している。これは明らかに矛盾である。これでは、世界がヒトの数だけあることになってしまう。これに物理次元、幻想次元の4次元世界を適用してみると、個人の中の幻想次元が、外界の物理次元との交感によってその都度カミを要請するのである。絶対がその都度出現するのだ。ただし、幻想次元は個人体験情報の集積と、個人を超えたより抽象度の高い生命共同的メタ情報の集積で成立している。したがって幻想次元のカミたちは、様々な個性とバリエーションを持つのだ。時によりモノノケの憑依さえ起こることがある。無意識の領域のカミが、個人に宿ることにより、そのカミの加護や影響の下で人は生きているのである。
この事は、日本文化が過去の歴史上、古代の稲作、漢字、仏教から現代の自動車、アニメ、ラーメンまでありとあらゆるものを海外から取り入れ入念に手を加え、カスタマイズする独自文化につながっていると思われる。外界の物理次元からやってきたモノたちに関心を持ち喜んで受け入れて、幻想次元に内在するカミと同一化することにより、この思考パターンが共に物理次元のモノと幻想次元のカミ(タマ=モノ)と、ヒトが一体になって人生を生きるというライフスタイルを定着させたのだ。無意識という幻想次元の無尽蔵のデータベースの使いこなし方が、日本文化を世界に役立ててもらえる大きなヒントになるかも知れない。
2016.1
→この試論へのご意見、ご批判をお願いします。

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