「日本」を忘れた日本人

◉新しい日本を見つける    私を見つける

この見出しは、NHK BS放送「新日本風土記」のサブタイトルである。この番組からのメッセージは「自分たちの日本をもう一度思い出してみよう」というものに違いない。私たちは、150年前の明治維新、70年前の敗戦を経て大切なものを忘れてしまったようだ。現代は、日本人にとって忘れてしまった古いものがかえって新しいものに感じる時代となった。勿論、古いものがすべて素晴らしいとは言えないが、現代日本人は、物質の誘惑とシステムの利便性の中で、そのこころを失ったかのようにみえる。

 

◉興味のあること以外は皆風景!

現代の日本は、随分ヒトと世の中の様相が変わってしまった。まず人々は、元気がない。考えない。前に出ない。責任を取らない。自己中である。興味のあること以外は皆風景、などなどである。このままでは日本は沈没しそうであるが、これには理由がある。希望喪失の三重苦である。一つは、近代の終焉、大量生産大量消費と高度情報化を中心とした20世紀的な世界が、21世紀的秩序に移行する歴史的過程にあり、まだ次のビジョンが持てないでいること。端的には日本では「ものが売れない時代」になったこと。高度経済成長期に人々の幸せを満たした家電製品やクルマの持つキラキラと輝くオーラの消滅である。さらにより便利さと快適さを追求する消費欲求が、社会全体のシステムを作り上げ、ミッシェル・フーコーの言うすべてが「システム」に取り込まれた世界となり出口が見出せないでいること。二つ目は、アメリカ合衆国主導の資本移動の自由を本質とするグローバルリズムに巻き込まれ、空洞化と格差が拡がり、しかも日本では人口の減少に伴い将来が見通せない不安な社会になりつつあること。三つ目は、戦後、知識の記憶を中心に仕組まれた戦後教育の果てに人々の思考力が衰え、本来持っていた動物的感受性も退化していること。したがって自然なイノベーションが停滞しているのかもしれない。これらがまさに希望が持てない三重苦となっている。このことを感じながら元気を出せと言ってもなかなか難しい。多くのヒトは、自分の繭を作って、その中で自分だけの世界に閉じこもっていると言ってもいいのかもしれない。

 

ただしこの三重苦は、ある意味で常識的知が編み出したもっともらしい理由ともいえる。根本的解決はもしかして別次元にあるのかもしれない。おそらく過去の日本人が行なっていた一人一人が自分の生きる力や好きなことする力を出して自由にすればいいのではないか。日本には三年寝太郎や花咲じじいというキャラがいたのだ。多くのヒトは、自我内部の繊細な心象が自分だと思いすぎていて本当の自分のことをあまり知らない。例えば日本人である自分を知らないのではないか。自分より100代前の先祖は約1万人いるそうである。ということは1万人の血が混ざっているのが自分であり、その1万人の先祖の1人でも欠けていたら自分は生まれなかったのだ。そう考えてみると自分が1万人から何を受け継いだのかをじっくり考えてみるとよい。

 

もともと日本の文化の特質は、カミへのもてなしをベースにしていた。「祭」である。これが神社の氏子として地域に根付き住民相互の人間関係をつくることによって共同体が維持されてきた。この事が、ヒトへのもてなしとなり、ヒトに喜んでもらうことを自分の生きる喜びとする文化ができあがっていったのだ。現在もこの文化は地域には残っているのだが、随分形骸化しているようである。したがっていわゆる自己中などありえなかった。しかし時代は変わり現代日本となった。さらに企業活動も全体的には、かつての革新的なイノベーションがみられなくなっている。ただし、日本は、高学歴化や高度消費社会を経験することによって、かなり洗練された社会を作り出し、従来の日本人の常識を越えた世界レベルの人やモノが登場してきているのも事実だ。新しい潮流も垣間見られる。

 

一方、海外視点からみると、不思議の国、日本への評価や期待が高まっている。日本食やアニメ、職人の技術など、ものづくりの世界では、世界水準のクオリティが評判である。実際のところ伝統的に日本人の生活意識は、美意識を含めレベルが高い。これは日本人の広い意味での文化性による。この文化性は、日本人にとっては当たり前のことなのであるが、海外からは高い評価を得ているのだ。明治に日本にやってきたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、当時の庶民の日常生活の中に日本文化のレベルの高さを見出して感動しているのだ。現代の日本人にも縄文時代から綿々と育てたライフスタイルというべきDNAが受け繋がれている。自らの仕草やちょっとしたこころの動きにそれは宿っている。試しに自分のお祖父さんや母親の背中を想い起こしてみれば、そこに何かが感じられないだろうか。

 

 普通、ヒトは概ね日常世界を、物理的にも心理的にも疑うことなく生きている。空を見れば雲が浮かび、耳をすませば鳥のさえずりが聞こえる。世界は安定して感じられる。しかし隣にいるヒトは、自分と同じ風景が見えているのだろうか。ヒトの五感には、ヒトそれぞれの心理的視界がある。興味のあること以外は皆風景と言われるように、ヒトにより興味対象やモノの見方が異なるため同じ風景でも別の感じ方をしているのだ。さらにヒトには心理的な盲点があり明らかに見えてないモノもあるのだ。

 

さらに生き物ゆえヒトは自分の身を守るため常に周りに気を使い、将来に不安を抱き、誰もが苦労が絶えない存在でもある。ヒトがその日常でほぼ無意識に行っていることは、外界の情報の出入りのボリュームを自動調整していることである。例えば、親や上司の説教には自動的にボリュームを絞ることだ。子は親が「勉強しなさい」というと「わかっている」と言いながらスイッチをoffにする。職場で上司が苦言をいうと「わかりました」と答えながらスイッチがoffとなる。これらのことは、空気を読むというかなり高度の感受性を必要とし、思いのほか痛々しい努力の結果なのかもしれない。これは自己防衛、自己保存の技であるとともに、情報を遮断する行為なのである。知らないことを遮断して知らないでいようとする自己防衛のための努力なのだ。このことは現代に限ったことではないだろう。しかし、紋切り型の教育が普及した結果、あまり役に立たない知識を身につけた先生たちをみんなが尊ばなくなり、進学率の増加による学歴の社会的価値の低下が、知ることへの意欲を無くさせていると言えるのかもしれい。

 

現代社会では、アメリカ流のグローバリズムが蔓延し、その機能的合理主義が随分定着してしまった。その結果、すべてのヒトはシステムの檻の中で暮らしていると言えるかもしれない。システムに依存しなければ生きていけない世界になった。自分自身もすでにシステムの一部である。もうタバコ屋の看板娘はいない。システムは個別のキャラクターを必要としない。全国津々浦々まで物販や飲食のチエーン店が進出し、東京のサービスが受けられるとともに地域の景観も均一化した。そこは顔のない人たちがマニュアル通りに蠢いている世界だ。こうなってくるとますます社会もこころも空洞化する。拠りどころがなくなる。外部に拠り所を期待しない「興味のあること以外は皆風景」と感じる自己中が溢れる社会となる。一般的にヒトの幸福感とは、自分が信じることを行い、その結果を他者に評価され自分の存在が社会や関係者に受け入れられること、とするならば、顔のないシステム化されたこの状況では、自分を守るために極私化するほかはなく「自己中」蔓延社会となるほかはない。

 

システム依存は、被害者意識を生む。システムの生成には自分は参加していないからだ。それゆえシステムを批判しながらシステムに依存する関係が続くことになる。閉塞感が関係を支配する。社会もシステム側の顔のない支配層とシステムに支配される顔を失った支配される側に分かれてしまう。もう古典的な国家や文化はリアリティを失っている。政治家も自らの顔を失って久しい。この閉塞的な状況を超えるには、外部に出るほかはない。システムを進化させシステムに依存して生きれば最低限のリスクで生き延びることができると一般的には思われている。しかし、システムの最下層の人たちが増えるにしたがってシステムは彼らの存在を排除するようにはたらいていったのだ。彼らは身の危険、存続の危機を感じるに至った。こうなるとシステムの外に出ようとする動きが高まるのだ。端的な例は、移民の増加や、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ現象である。

 

現状打破の第一歩は、方法を持つことである。そのためにはヒトのこころの働きを理解する必要がある。知らないことを知りたくないこころの働きとは一体、何だろうか。また哲学者ソクラテスは、知らないことをを知っていることが知恵の第一歩であると説いた。ヒトはどこから来てどこへ行くのか?私とは何か?生きる意味は?死んだらどうなるの?子どもの頃、誰もが疑問を持った問いである。その時、大人はその問いにうまく答えられたであろうか。ヒトは曖昧を抱えたまま大人になって、そのままこれを忘れてしまっているのではないだろうか。もちろんそんなことは知らないでも生きていけることをヒトは知ったからである。しかしヒトのこころは、それらの問いが曖昧で未解決であるために多くの苦悩を抱え込んで試行錯誤を繰り返している。ここで求めることは問いの直接的な答えではなく、まずは知っているつもりの常識に囚われない知恵の道筋をつけることである。

 

まずは、この時代を主導している空気と、一般的常識の嘘に気付くべきである。そのポイントは、自分の意識を中心に置かないこと。原因と結果を求めすぎないこと(決定論の否定)。となる。

さて、ヒトのこころ(意識)とは、何だろうか? それは脳というプラットフォーム上の情報空間であり、脳が処理する全情報(無意識)の中の、そのごく一部がこころ(意識)であると思われる。パソコンのデスクトップのようなものである。デスクトップに表示されるものはデータの全体とはいえない。

第1点は、脳は、まず身体を介して無意識に取り込んだ全てのデータ処理を行っており、意識=こころは、その中心ではなく一部を担っているにすぎないことを理解することである。これにより私=意識=こころ が、全情報を統括しているという思い込みを相対化する。

第2点は、意識の発達にヒトは言語を利用した。または言語が意識を発達させた。言語の特性は、特に論理性と記号性である。これにより人類の歴史的過程の中で課題を論理的に解答に導くいうニュートン、デカルト、ダウィーン的な近代の世界観が定着した。つまり物質で構成された宇宙の物質の運動は計算でき確定できるとする思考である。このような近代的決定論をも相対化したい。

 

ソクラテスが言うように如何にヒトは知らなかったを明らかにして、何を知るべきかにつなげていくことが必要であると思われる。個性尊重と言われながら同時に協調性や平等性を押し付けられて育った世代の人たちは、国家や社会に背を向け自らの世界に閉じこもることでなんとか自己保存を図ってきた人たちであると言える。自己中の登場である。この事は社会状況からして一面で必然なのであるが、これでは出口がない。打開策はいま見える日常のリアリティを感じる部分、興味のあることに集中して、その中で知らないことを知り、思い切って突き抜け突破するしかないと思われる。結果的には身体と行為にしか打開策はないのだ。ヒトは行動した自分を振り返えり自己を確認することである。この事は、システム内で暮らす全てにヒトにも当てはまる。まずは知らなければならない。

 

そこで思い切った仮説ではあるが、ヒトの脳に飛び交う情報はむしろ量子論的、雲のような曖昧性を本質に持つと言えないだろうか。量子論は元素レベルの極小の世界の法則とされてきた。したがって日常とはかけ離れた世界だ。ということが現在までに一般常識になっている。しかし、そうだろうか?脳のニューロン・レベルで起こっていることは量子の世界そのものではないだろうか。空気のように当たり前すぎてヒトは気がついていないだけではないのか。世界中で起こっていることをみると、確実なものはほとんどない。この量子的現実を、日本人は、「あわれ」といい、色即是空といい、諸行無常といっているのではないだろうか。今風にいうと「カミ」は、無意識が創作し、意識が「カミ」と捉えた存在のユニット情報の塊であり、生きるためのソリューションといえるかもしれない。キリスト教やイスラム教はその経典が指し示すように言語を媒介に絶対化されている。いわばOSレベルで世界を形作っているのだ。これに対し日本的な多神教世界のカミには経典はなく、パソコンの例で言えばアプリ的な個別ソリューションに対応しているといえる。実際、日本の八百万の神々は、個人の夢や苦悩を受け止め、地域の人々の文化を育てた、生きる意味を与える存在であり人生アプリとなっているのだ。もちろん、そのOSは、最初からローカル分散処理であった。

 

現代のグローバル化した資本主義社会が欧米のOSに基づいているものとすると、金と貨幣の相互保証を失った時より経済は記号となりバーチャルなものとなった。その結果、人類の生き延びる知恵の果てに「システム」があるとした時、ヒトは幸せになるかといった疑問を持たざるをえない。各民族が古来より育てた文化OSに根ざし、その上にカミ・アプリを動かしていくことが、次世代のテーマとなるのではないだろうか。キーワードは量子的世界観をベースとした意識中心主義からの脱却である。

 

仏教コンセプトである「空」観には学べるところが多い。ヒトは世界が物質で構成され安定していると思っているが、仏教は、物質はエネルギーであり状態であり、すべては現象であり実態はないと解く。但し、世界は個々のもの同士の関係(縁起)で成り立っている。この縁起の中にヒトの生きる意味が宿っていると解く。つまり仏教ははじめから量子論的なのである。宇宙にはエネルギーの状態としてのものが雲のように広がっている。その雲に、誰かが観測すると「モノ」が発生する。これにより観測者と被観測者との間に関係(縁起)が生まれコトが起こるのだ。この行為が宇宙を進化させ状況を変えていくのだ。

 

◉「東洋の考え方に自分は自分を生んだ祖先やありとあらゆる自然の中に宿る精霊によって生かされている、という考え方があるからなのです。自分というものはそんなにたいしたもんじゃない、むしろ自然の霊の一部に変身したい、と願って桜の木になったり梅の木になったりするわけです。

日本語は主語のない言語だともいわれています。自分自身はからっぽにしておいて、そこに他人や森羅万象のあらゆるものがはいりこめるようにしてある。だから簡単に自分の心を桜の花吹雪にしてみたり、霞のなかを飛ぶ雀の心で風景をみることができる。近代化する以前の日本人はそういう心を持っていたのです。

これまでに生きてきた地球上の全生命体の末端に自らが連なっているという感覚、私という存在が背負っている、数多くの生まれ死んだ先人たち、無名の人々の無限の存在を感じ取る力をアジアの人々は大切にしてきました。

自分の生活のすみずみに目に見えない自分を生かしてくれている精霊たちの存在を感じ取れる力を今でもパプアニューギニアやインドネシアのジャワの人たちはもっているといいます。」

杉浦康平  グラフィックデザイナー、東洋の図像研究

 

◉ ニューヨークMOMAのキュレーターたちの日本への関心は凄いものでした。現代の秋葉原の現象は、60年代のニューヨークに匹敵するのではないか。いま日本からはとてつもないものが生まれているかも。萌えは、わびさびや、間(ま)や幽玄に匹敵する感覚ではないか、といっていた。

 

 

◉仮説   情報宇宙へ

①宇宙は情報でできている。情報宇宙は、幻想次元、物理次元と時間で構成される5次元世界である。

②したがって情報、物質は、どちらもエネルギーに還元される。

③情報体である生命の目的は、メタレベルでの情報進化であり、物理次元での生物進化と、生存幻想の最適化である。

④ヒトの無意識領域には、種として全ての生命情報が宿り、生命としての一生を生きる。一生を終えると蓄えた情報は、進化のために抽象化処理され続く子孫に伝達される。いわば、誕生以前が種。一生が花。死後が実となり連続する。

⑤生命の一生は、花=クオリア=文化として現象する。それは美しい幻想である。

⑥一神教の絶対的神は、意識の属性であり、多神教のカミは無意識世界の量子である。それらは、無意識世界に浮遊する高密度の情報体である。

 

◉現象する神々      神は情報である

まず宗教とは何か?大きく分けてみるとキリスト教、イスラム教は、共に救済の宗教である。また本来の仏教は、悟りの宗教であった。仏教は、大乗仏教への変遷、中世の浄土教などへの変遷の中で救済の宗教となる。また、日本の神道、八百万の神々の世界は、いわばつながりの宗教であるといえる。

 

それぞれの宗教に共通することは何か。それは、ある大いなるもの、真なるものへの祈りである。それらは不安な世界を生きるヒトが、見いださざるをえなかった生きる力を与える情報体であった。神は物理次元にはいない。幻想次元の存在である。神は幻想次元、無意識の領域に住むパワフルな情報体なのだ。中でもキリスト教など一神教の神は、アニミステックな神々の先に見出した唯一無二の完全情報体としての抽象度が最も高い存在である。しかし現代の科学において不完全性定理が完全情報体は存在しえないことを証明してしまっている。それに比べ、日本の八百万のカミたちは、アニミステックなカミたちの原型を留め、祈るヒトに対して並列的に現象する存在である。情報論的には、カミという一定の機能を持った情報ユニットが無意識エリアに無数に浮遊していてヒトとの相互作用を経てカミはヒトに影響している。

 

このことはヒトの文化の基層原理に影響を与えている。欧米を中心としたキリスト教が、絶対の神がヒトを造り、ヒトは生れながら罪を背負い、死して神の審判を仰ぐ宗教である。それ故、抽象度が高次である分、その作り出す幻想の全体的な縛りも強大である。キリスト教は、プロテスタンリズムを経て、マルクス主義や資本主義を育てていくことになる。結果、現代にヒトは、それが作り出した巨大なシステムなかに幽閉されることとなった。それに対し、八百万のカミたちは、自立分散システムとして機能する。個性豊かでヒトに対しては役割を分担して事に当たり、福や幸、祟りや呪いを及ぼす存在である。これにより日本に入ってきた仏教、道教、キリスト教も、日本人は新しい八百万のカミとして受け入れ、取り込んでいったのだ。日本文化とは、いわば1万年の縄文時代が作り上げたこの列島独特の無意識OS上につくられた文化ではないだろうか。日本人は古代から現代まで、外から何でも受けいれ、それをカスタマイズしてオリジナルのものとはまったく異なるものを作り出してきたのだ。すべてはその無意識のOSの正体こそが日本文化の秘密と言えるのかもしれない。

 

以上のことから現代で主流の欧米文化を基本とした資本主義は、一神教であるキリスト教文化をOSとしている。もしいまの世界の中で日本文化への関心が存在するとすれば、伝統的にも現代的にも日本の基底を形成するJAPAN OSの有効性の発見である。キリスト教OSは、基本的には万能の神的なリーダーの聡明なトップダウンが期待される。これに比べてJAPAN OSは、ボトムアップで並列分散的である。

 

◉物理次元と幻想次元

物質は、エネルギーの一つの形態である。物理次元では、岩石や水。それらを構成する分子。分子を構成する原子など量子の世界へ連なっていく。原子を構成する陽子、中性子、電子。クオーク、最後はヒモ状に振動するエネルギー体となる。それらは本質は同じものではあるが、それぞれの階層ごとに抽象度が異なりまったく別物のように振舞っている。これが私たちが普通、世界と考える宇宙である。

こころに現象するものは、情報(幻想)である。物質世界のような実体はないのだ。一つの生命体の一生には、それぞれの宇宙が存在している。一つの生命体が死を迎えると、一つの宇宙が死ぬ。その宇宙は、生命体の脳に存在している。脳は個体の生命維持と進化を司っている。脳が作り出した情報は処理され次の世代へと受け継がれていく。脳には生命の50億年がインプットされているのだ。情報は、徐々により高度に洗練されていく。

 

◉クオリアは幻想ゆえ素晴らしい

ヒトは生きていると、自分が生きていることを実感したり、感動したりする感触を得ることがある。これがクオリアである。これは無意識から情報が意識に送られてくる時に伴う現象であると言われている。客観的には錯覚や錯誤を伴う現象らしい。つまり幻想情報なのだ。しかし、ヒトの文化行為はこのクオリアが満ちている。特に芸術は、源氏物語にもギリシャ神話にもミケランジェロにも、このクオリア抜きでは考えられない。つまりクオリアは、幻想次元の花なのだ。

 

◉生命体の目的

生命はその発生から、生命進化と個体の生存維持を目的として進化してきた。その目的は、すべての生命にとって共通であるが、個々の種は、外的環境などにより個別の戦略をとっている。中でも雌雄の分化、個体の死による世代交代、意識の発生などは、生命進化の大きなステップであった。これは生命体のシステムデザインの特異点といえるかもしれない。

 

まず最初に物質とエネルギーの物理次元としての宇宙があった。そこに物質の新たな形態としての生命が生まれる。生命は、その内部と外部の相互作用として情報処理を行いながら生存し進化する。生命には、徐々に高度な情報処理を行う器官ができる。脳や神経組織である。哺乳類などの進化の戦略は、脳を発達させ内外部情報をより高度に処理し、より有利に生存維持を図ることにある。脳には自律分散的処理を行うニューラルネットワークが発達していった。「無意識」の発生である。無意識は、内外界の情報処理を的確に行い生存効率を高めた。次に一部の種に「意識」が発生した。意識の目的は無意識からの情報を通時的にストーリー化して記憶する「エピソード記憶」の確保であったと思われる。ロボティクス研究者の前野隆司氏は、『意識する心』ディビッド・チャーマーズなどを検討しながら受動意識仮説を発表している。氏は意識の中で発生するエピソード記憶とは「自分が行ったこと、注意を向けたことの記録だ。〜中略〜  意識はエピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ」(脳はな。ぜ心を作ったのか:筑摩書房)と書いている。

 

ヒトは、センサーとしては限られた機能しか持たない視覚や聴覚などの五感を通して外界の情報を取り入れ、経験などの内部情報を付き合わせて認識し行動を決めている。これを司るのは無意識であるのだ。大部分の生命維持行動は無意識が行っている。ヒトでは脳内の一千億個のニューロンが自律分散処理を行っている。ここに一つの秘密が隠されている。もしかすると生命の本質は、物質の情報化、もしくは宇宙の情報化なのかもしれない。つまり自然というものは次々に新たなジャンプを経ながら階層を上昇させるシステムと考えられるのではないだろうか。

 

 生命現象を一つの情報システムとみると、様々な想定ができる。ヒトの五感は視覚も聴覚も限られた範囲の情報しか得てはいない。ミツバチはヒトの可視領域を超えた世界を見ているし、ネコは高周波の音を聞いている。何れにしても生命は本当の外界を認識しているわけではない。自らに受け入れた情報を処理して、情報としての画像や音声を聞いているにすぎない。それにもかかわらずヒトの意識は、自分が見ているもの、自分に聞こえる音は、そのリアルさゆえに真実と思いすぎている。さらにリアルな画像や音声には、内部情報のフィードバックがかかっているのだ。ゆえにその画像や音は演出されているのだ。通常、司令塔は、自分のこころ(意識)であると思っている。しかし最近の認知科学の研究では、それを無意識領域としているようだ。もしそれが事実なら、この試論の方向に沿っている。

 

縄文人のアニミステックな自然認識は、自然の中にカミ(タマ、モノ、オニ)を見出しているが、五感による認識そのものが情報処理の結果のアウトプットとすると、ヒトの無意識世界のフィードバック情報が、五感のもう一つのレーヤとして感じていると思われるのだ。現代から見ると縄文人の見たカミは単なる幻想かもしれないが、本質的に生命体の感受するものはすべて幻想=情報であるともいえるのだ。むしろ本論では、五感で感じる世界、物理次元と時間次元に、幻想次元(情報世界)を加えている。ヒトの見る世界はこの5つの次元の現象であるとする方が自然ではないだろうか。したがってもう大部分の現代人には見えなくなったカミやモノノケは、縄文人には日常のものであったといえそうだ。

 

また、生命史とともに意識史といえるものがあるとすると、その人類レベルの変遷には、言葉以前、以後、言語以前、以後、さらに国家成立以前、以後が考えられるはずだ。現代の意識の私の位置付けは、近代以後のものでありこれに基づいて古代は語れない。このことはヒトの能力の進化とは関係がない。むしろ古代人の方が現代人より能力は高かったのではないだろうか。また現代では、ヒトの意識、こころの現象を重視しすぎているのではないだろうか。それは、ヒトを中心に世界をみる観点、個人の生死から世界をみる観点などが考えられるのだ。本論の趣旨から言えば、縄文人は、日常的に5次元世界を生きていたと言える。カミの世界、死者の世界とともに生きていたのだ。此岸と彼岸は交わっていたのだ。それが意識の変遷に伴い両者は離反してしまった。むしろ現代では、彼岸を排除してしまっているのだ。このことは本来の主体である無意識情報世界が背景に遠のき、意識としての私が前に出た形態になっているのだ。そして「私」は不安を抱えているのが現代なのではないだろうか。

 

まず、外すべきは「私」という眼鏡ではないだろうか。ブッダの悟りの境地を理論化したナーガールジュナは、日常と感じる世界でヒトが生きてきたなかで、そのすべてのモノ、コトとのつながり(縁起)を感じ、それらを超えた視点から、つまり眼鏡を外してみることによりまったく新しく世界を見なおすことで見える世界、それを空といった。今までは物理次元の中で、物事を実体と思いこんでジタバタしていたことが、空の世界では、それらはすべて関係(縁起)生んだ情報世界であり実体がないのだとする。ヒトの一生は情報世界の現象と捉えると、この世界はヒトの数だけあるということになるのだ。

 

したがって仏教など東洋的思考の伝統は、ヒトの人生とは実は実体のない幻想次元、情報空間の現象と見ているのだ。情報には重さも幅もない。それらは数字や文字で示されるが、そこには「関係」しかないのだ。いつの間にか物理次元を見る眼鏡のみで生きてきたヒトは、幻想次元が見える眼鏡に掛け替えて世界を見ることによりもう一度、生きることが可能になるのだ。幻想次元は個々のヒトの脳に広がる無意識という情報世界である。カミはそこに存在するのだ。これを5次元世界に住む古い時代のヒトは、そんなカミたちと共に生きていたのだ。カミたちはそんなヒトたちに知恵を与へ、サチを与えたのだ。

 

人類史の中で、世界各地の文明が発生したが、その最初はヒトは5次元世界を生きていた。幻想次元が見えていた人々は、文明、国家、言語、個人という意識の変遷に伴い、本来の無意識世界の視覚性を失っていったのだ。無意識世界は、物理次元では脳にある一千億個のニューロンの自律分散的処理システムである。これが外的情報と内的情報を総合的に処理し、思考、保存を司っている。意識はこの無意識の一部の機能にすぎない。無意識は、個人の過去の体験だけではなく、先祖から受け継いだ生命の過去の全英知というべき情報も含まれた生命知データベースである。これにより生命行動の最適化や、創発的進化のジャンプが実行されているのだ。